読書メモ

2008年5月 4日 (日)

街道をゆく 夜話

司馬遼太郎    朝日文庫Kaidoyawa

2007年12月(12/8)



お気に入り度:★★★★☆
-----------------------------------------------------------
------------------------------------

 久しぶりに司馬サンの本。「街道をゆく 夜話」ということで、後の街道をゆくシリーズにつながる入門書という触れ込みである。なにげない書きぶりが、かえって「行ってみたい」という気にさせてしまう。
 この中でのお気に入りを記す。

【裾野の水】(三島)
 三島へは何度か行った。江戸以来箱根越えに依存していて、東海道線を通すとき、箱根を越す鉄道でないとダメと駅の誘致をけってしまったという話や太宰治にとっての西限の街で街の親分さんに気に入られていたという話。へえーそういう街だったのか。
 旧街道沿いの浪漫亭というのは行ってみたい気がした。

【大垣行き】
 大垣は行ったことはあって、夏真っ盛りの中、小一時間歩いて喫茶店に何度も入った経験がある。
 古代のある時期まではヤマト政権の東限であり、今関西言葉の東限でもある。大垣ではガンモドキは本当はひろうすというのだ。
 司馬さんの旧知のIさんは岐阜に左遷(東遷?)されても淡々と勤め上げるなか、たまたま司馬さんが入った飲み屋にきていたという話、なぜか心に残った。

【長髄彦】、【竹ノ内街道こそ】(竹ノ内)
 竹ノ内には長髄彦の古墳(そう伝承され、末裔が守っているという)があるのか!竹ノ内村民(司馬さんも)温順高雅をほこる長髄彦の末流か。
 「竹ノ内街道こそ」は、長尾の先の坂から望んだ竹ノ内の景色が大和でいちばんいいという話。ここは以前行ったが、再度眺めてみたい。

【雑賀男の哄笑】(和歌山)
 司馬さんが子供のころ地蔵盆で見たという阿呆陀羅経の願人坊主の話から始まる。この男が雑賀男であった。雑賀は元々朝鮮渡来の韓鍛冶が多く住んだところで、戦国時代には天下最大の鉄砲集団・雑賀党を作り上げる。
 雑賀孫市はそんな土壌から生まれてくる。雑賀孫市は織田という大勢力に圧迫されつつも妥協せず戦い、数度打ち破った。その独立自尊を地で行くような雑賀末裔の一族会会長さんが目前に現われるというお話し。

【生きている出雲王朝】
 天穂日命直系第2次出雲王朝の子孫が出雲国造となり、現在まで続いているというのも驚きであるが、大国主命直系の語部がおられることには驚いた。あるあかせない理由により、大国主命の系統のうち一家だけが残された。第1次出雲王朝の語部として今も(この文が書かれた当時1961年)行動しておられて、なんでも古事記や出雲風土記に書かれていない重要事項もあるのだとか。仰天!まさに出雲王朝は生きている。

【宇和島人について】
 『宇和島はずっと昔に通ったことがある。』チャーターした観光バスがアーケードの商店街を走りぬけたのにはおどろいた。
 司馬さんによると、宇和島人は類いまれな協調性をもっているという。しかも無名に徹する。近代の特徴はビジネス社会で、この協調性がなければ運営できない。多数の宇和島型の人間でこの社会が支えられていることを思うべきである。

【薩摩坊津まで】
 この作品がいちばん、あとの「街道をゆく」の文章を髣髴とさせる。遣唐使船が舫っていたという坊津港の見える鳴海旅館。行ってみたい。

-----------

2009.1.24訂正:『宇和島・・・』は間違いでした。正しくは八幡浜。ほんとうにアーケードをバスが通ったんです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 3日 (土)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

内山 節    講談社現代新書

2007年12月(11/20)Kitune11






お気に入り度:★★★★☆
----------------------------------------------------------
----------------------------------------

 帯キャッチを見ると「転機は1965年だった!」とある。1965年といえば東京オリンピックを成功裏に終え、さあ今度は大阪万博だ、という活気に満ちた年であった。年がばれてしまうのだが、私が高校に行きだした頃だ。ムラで暮らすことのなんとなくの重苦しさや、ここでは思い描いた生活ができないという壁みたいなものを感じ、京都か大阪かは知らないけれどムラを出て行くのは当然のこととして、新しい世界に向けての準備として通学を始めていた。
 今考えると、1965年の変化はこの本のとおり、いちいち思い当たるのだ。イナカにいてその一つ一つを目で見て体験している。たしかに大きな変化であったが、その当時は、それが当たり前のことだと思っていた。キツネにだまされなくなる、とはこれぽっちも思っていなかったが。
 1965年の転機とは、無理やりダイジェストすると、
 ①経済が「神」として君臨する時代-経済を媒介としてのコミュニケーションで人間が自分の精神を作り上げた。
 ②科学の時代-科学的に説明できないことを迷信やまやかしとして排除する精神を生み出した。科学で理解できない世界は分からなくなった。
 ③TVの時代-均一な情報を受けとることが普通になり、自然のなかから情報を読み取る能力が衰退した。
 ④進学教育の時代-よい大学や企業に行くための教育が主流になり、ムラで暮らせる人間を作る教育(通過儀礼や年中行事など)が崩壊した。
 ⑤共同体離脱の時代-自然からも、生まれ育った共同体からも離脱するようになった。包んでいた世界が変ることによって、それまで、生きていく過程を「霊」が穢れていくととらえていたのを、人間らしさを追求するのが当然であると考えるようになった。つまり、自然と共同体は、自分にとってプラスかマイナスのプラグマティックな対象となった。
 ⑥自然は資源となる時代-自然は「オノズカラアル」という考え方、即ち、自我の都合で自然を取り扱わないという考えから離れて、利用したり保護したりする対象となった。
 この他にキツネの能力が変化したという考えもあるようだが、それはおくとして、以上のような変化が1965年にイナカの隅々でも起るようになって、人間はキツネの発するコミュニケ-ションに応じる能力を失った、とある。

 要は、そういう時代は、日本仏教でいう「山川草木悉皆成仏」の精神世界に生きていることを民衆が「なるほど、わしらはその通り生きてるな」と思って、その上で、人間が生きていくことは欲もあり我もあるので、「その通り生きるのは難しいけどな、逆に生きていくには、その煩悩は解体しないとあかんな」と、まずもって認識する。そういう精神世界に生きていた時代であると言える。観念的な説明しかできないが、その精神性が1965年頃には失われていったということだろう。
 
 さて今、そういう精神文化が変わってしまった時代にあって、どうなのか?良かったのか悪かったのかを問う前に、いったい何がどうなったのかを内山さんは問いなおそうとしている。その自問自答のなかから日本の再設計のようなものが出てくると思う。
 1965年の同時代にイナカを出てきたものとしては、精神文化の変化を体験して、自らの精神構造もそれにあわせて変えてきたように思う。しかし、人生の一つの節目を迎えるにあたって、100%それで良かったとは思ってなくて、「今まで何をやってきたんだ」という疑念は少なからずある。もう後戻りはできそうにないが、うすうす気づきながらも、この本によって改めて重いテーマを背負ってしまった感じはしている。
 どう決着を着けるのか?
 時々イナカへ帰ることもあるが、イナカはすっかり変わってしまった。機能的になった側面と、イナカ自体が寂れてしまったという2つの側面がある。イナカはいわゆる限界集落となってしまって、昔のような共同体生活も機能的な都市型生活もできそうにない。今のところアイデアなしだ。そのなかで、具体的には、その山、田畑、家をどうするのか、ということが残っている。法的な処分は簡単だが、この持っていきかたを決めてゆくことが背負ってしまったテーマに決着をつけることだとさえ思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月29日 (火)

働くひとのためのキャリアデザイン

金井 壽宏    PHP選書Careerdesign

2007年11月(11/20)




お気に入り度:★★★★
---------------------------------------------------------
------------------------------------

仕事の本です。

あまりPHPの本は読まないのですが、金井さんに免じて・・・


| | コメント (0) | トラックバック (0)

複数の古代

神野志 隆光    講談社現代新書

2007年11月(11/9) 90






お気に入り度:★★★☆
------------------------------------------------------------
-------------------------------

 正月を越した途端にむちゃくちゃ忙しくなって、気がついたら新緑の季節でありました。その間、活字は読むけれど書く気のしない時間が続きました。ま、毎年のことだけれど、こういう生活から早く足を洗いたいもんだ。
 たまりにたまった原稿を少しでも片づけていきます。

 
 古事記と日本書紀ではそもそも異なる歴史(や神話が書かれているとする。万葉集にあってもそうだ。
 古事記とか日本書紀に書かれた古代というのは、その時にあって、ある勢力が、その拠ってたつ歴史(古代)を編むことによって、自分たちの現在を確認し、主張していくものになっているので、当然そうなるだろう。歴史は一つではないと言う由縁である。
 書く側の自らの正当性主張のために、歴史を書き換えたといってしまえば身も蓋もないが・・・神野志さんは、古代にあって、その「古代」の多様さを見るということは、そのいとなみの豊かさを見ることであると柔らかに言っている。
 読んできて、どうもしっくりこないのは、誰が何のためにという所まで踏み込んで書かれていないからだ、という気がする。
 そういう、読者の勝手な注文に応えるよりも、神野志さんのいいたいのは、「古代」は書き手によって多様になる、ということは、我々の知っている古代も、それは教えられてきた古代なのであって、書き手によって起こる多様性の中にあるということだろう。となると、「古代」を読むにあたって自分の視点を持てということだろうが、多様性の中にあって、そこが素人には難しいところだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 8日 (土)

竃神と厠神 異界とこの世の境

飯島吉晴    講談社学術文庫

2007年11月(10/15)Kawayagami




お気に入り度:★★★★


 正月を過ぎてフルパワーで動かざるを得なくなり、正直、活字を読みたくもないし、書きたくもない心境なのだが、すこしは先が見えてきたようなので、ここらで少しアップしておく、とイイワケを先にしておいて・・・----------------------------------------------------------
--------------------------------------

 天照大神のような床の間に祀られる表の・公式の神(体系)に対して、薄暗い家の裏に祀られる私的な神々。

 そういえば、田舎の家にもあった。正月には薄暗い納戸にお灯明を立てていたような気がするし、便所にもしていたような気がするがこれは忘却のかなた。お正月だからと、何の疑問もなしに納得していたが、そこには神様がおられたとは。
 長く家を出ている間に父親が、それまで何もなかった居間の鴨居に棚をつって、小さな祠を祀るようになったが、それは表の神様だろうか。裏の神様を、薄暗いところではあんまりだ(というより、生活様式の変化によって、昔の納戸を使わなくなってきた)、という訳で、裏の神様を比較的表側に引き出してきたものだ、と理解しているのだが。

 さて、その暗いところは異界とこの世の境ということだったのか。
 異界というのが、そのまま理解してよいのかどうかがよくわからない。祖霊が集まる所とこの世の接点をお祀りすることで、ことあるごとにその智恵をいただくということなのか?先祖が渡り来たった(渡り来なくても)、そのルーツを思い出し、その智恵をいただくというように理解したいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月31日 (月)

日本の色を歩く

吉岡 幸雄    平凡社新書Nipponiro

2007年10月(10/15)




お気に入り度:★★★★
----------------------------------------------------------
------------------------------------

 またNHKTVの話で恐縮ですが、2006年の夏ごろだったか、ココ・シャネルのデザイナーが新しい口紅の色を探しに日本にきて、たしか、紅花の赤、それも蛍光を発するような輝きをもった赤を発見していくプロセスを取材した番組がありました。その過程で京都の老舗の植物染屋の主人のところにくるのですが、その人が吉岡さんだったように思います。
 ココ・シャネルのデザイナーは紅花の赤をもって帰り、ヨーロッパでは出せない輝きの赤で口紅を職人に作らせるのですが、そのとき、フランスでも「棒塗り」をやっていた、というのが記憶に残っていました。ちょうどそのころ、私は「色開発」の能力向上プログラムを担当していたので興味深くみていて、こういう番組を参考にしなければ、ということでDVDレコーダーの購入に踏み切ったというオチがつくのですが、まあそのオチに至る話はおいときましょう。
 
 染色は現代では当然ながら化学染料がほとんどですが、それでは出せない伝統の色というものがある、というより、近代化の過程で落としてしまった色があるということなのでしょう。さらに、世の中にアピールできる新しい色を作るには伝統の色も残しておいたり、消えてしまった色は発掘しなければならない状況なのでしょう。

 吉岡さんはあとがきで、染色分野の改革・改良はなされてきたが、それで本当によくなったか、それは大いに疑問である。・・・もう一度人間のものづくりの原点を見いだしたい。・・・江戸時代以前の日本人は、神仏に捧げるような敬虔な気持を持ってものをつくりだしてきた。古人の智恵と努力にもう一度目を凝らし、耳を傾けるときが今きている、と結ばれていました。
 古人の色を創造するスピリットを訪ねる旅の本でありました。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月30日 (日)

銀河鉄道の夜

宮沢 賢治    新潮文庫Gingatetudo

2007年10月(9/26)



お気に入り度:★★★★★
-----------------------------------------------------------
-------------------------------------

 「銀河鉄道の夜」は昔、ビデオ(アニメ)で見たことがある。
 ネコが主人公となっていて、カンパネルラとジョバンニが夜汽車に乗って天空を巡っていくシーンを覚えている。
 ガタガタガッタン、ガターーーン、ゴトゴトコットン、ゴットーーン、と繰り返す音をバックに、時々、キン・キン・カン・カン・カン、カーン、クン・クン・コン・コン・コン・・・(ドップラー効果を表わそうとしている)と信号機の音が近づいて過ぎ去っていく、そんな中2人は外をじっと見つめながら会話していく。このシーンだけ鮮明に覚えている。
 読んでみると、「人は何のために死ぬか(生きるか)」ということをテーマにした、結構シリアスな内容だった。といっても重苦しさは感じられず、ジョバンニの潔い意思みたいな、さわやかさも感じた。

 本を読んでずっとあとの話だが、山折哲雄さんがNHKの視点・論点(12月10日 )で「宮沢賢治と千の風」という題で話をされていた。
 山折さんによると、「賢治の童話作品っていうのは、だいたい決定的な場面で、風が吹くんですよ。で、風が吹いてドラマが始まり、風が吹いてドラマが終わるんですね。」ということで、たしかに、ジョバンニが、お祭りの日に、丘のうえで草の上にあおむけに寝転っていて、冷たい風がサーッと吹いてくる。同時に、天井のかなたから列車の音が聞こえてくる。ここから、銀河鉄道の旅が始まる。結局、ジョバンニはこの世に生き返り、カンパネルラは死んでしまう。ジョバンニは気がつくと、さきの丘の上、草に寝っ転がっていて、そのときまた、冷たい風がサーッと吹いてくる。
 この風というのが「千の風」であるというのだ。賢治26歳のときに、最愛の妹と死別するのだが(昔読んだ『永訣の朝』『無声慟哭』に出ていた)、それから1年後、賢治は旅に出て、その旅の中で、海浜に降り立って、雲のかなた、大海原のかなたを見るときに風が吹く。すると、その雲の中に妹トシ子の面影が立つのだという。山折さんは、この旅は妹トシ子の魂を地上に呼び戻すための「魂よばいの旅」と言っている。
 つまり、賢治は「天地自然万物の中に、命が宿っている。その中にトシ子の魂も宿っている。」という信仰というか、命というものの考え方をしていた。『千の風になって』という詩は、「亡くなった人が、私はお墓の中にはおりません。お墓の前では泣かないでください。私は風に乗ってこの宇宙を吹き渡っております。」というメッセージで、ここで歌われている世界こそ、宮沢賢治が詩や童話の世界で表現しようとしていた世界である。
 宮沢賢治の世界と『千の風になって』の詩の世界が、まったく同じ魂の源から生み出されているというところが重要なところである、と山折さんは結論づけていた。

 『千の風になって』、曲とともに、たしかに心に残る歌である。これは作家の新井満さんが英語詩を訳し曲を付けたものだ。この歌を聴くたびに「銀河鉄道の夜」でのジョバンニのそして宮沢賢治の決意を思い出す。
 

(参考)
http://www.ponycanyon.co.jp/international/pop/pccy01705.html

「千の風になって」は、2003年に朝日新聞「天声人語」が紹介し大反響となった、詠み人知らずの“死と再生の歌"。(作詩者をめぐっては、19世紀末にアメリカに渡った英国人、1930年代の米国人、米国先住民の伝承、など諸説がある) 芥川賞受賞作家の新井満が、この英語詩を日本語に翻訳、作曲、歌唱したCD(2003年11月、ポニーキャニオンより発売)が大ヒットを記録し、この「千の風になって」は誰しもが知るところとなった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の霊性 -越後・佐渡を歩く-

 梅原 猛    新潮文庫Reisei05

2007年10月(9/26)




お気に入り度:★★★★
---------------------------------------------------------
----------------------------------------

 越後といえば、翡翠、火焔土器、ウッドサークル。
 ヒスイは糸魚川の周辺、小滝川が主産地である。この地でヒスイが加工されたのは、なんと縄文中期、約4~5000年前という。ヒスイ文化は寺地遺跡や長者ガ原遺跡にて発掘されている。
 ところが中国では約5000年前からヒスイを元にしたというより稲作を中心とした大文明(浙江省・良渚遺跡)が展開していた。中国ではヒスイ加工品は玉(ぎょく)といって、単に飾りものということでなく、すでに精神的価値や経済的価値を現わすというコンセプチュアルな礼器となっていたようだ。このヒスイ文化が、同名の「越」というところから伝わってきたのかどうか?
 さてわが縄文人はなぜ苦労してヒスイを玉に加工したのか?それは、白を基調としたなかに緑が混じることに生命力を感じたのだという。これから不老不死の呪物となっていったようだ。弥生時代でもヒスイは勾玉に加工されるが、これは胎児の形をしていることから、生命力を感じて呪力を信仰していたらしい。
 さて、古事記の「越」神話では、越後のヌナカワヒメがヤチホコノカミ(すなわちオオクニヌシとみられる)と結婚する話があるが、これは弥生時代以降の大和の勢力(大和朝廷ではない)がヒスイほしさに政略的に婚姻をすすめたか、あるいは強権をちらつかせて征服した、ということを言っているのではないかとあった。そういえば、スサノオの「高志のヤマタノオロチ退治」とか、オオクニヌシが「越」を平らげたとか、出雲風土記の「越の八口」を攻めたとかいう話もあって、この話に対応しているのか。
 
 さて、火焔土器の火焔は蛇から変わっていったのではないかとか、ウッドサークルの巨木は蛇なのではとか、吉野裕子さん風に理解してみたいのだが、それを書くのはおいといて、地元のケーブルTVで見たのだが、四條畷あたりの神社の祭礼で巨木(の丸太)をそのまま御輿にしたものがあってど肝を抜かれた。これは一体なんだ?ストーンサークルの柱や諏訪神社の御柱祭となんらかの関係があるのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月29日 (土)

リーダーシップの旅 見えないものを見る

野田智義 金井壽宏    光文社新書

2007年9月(9/11)Leadership






お気に入り度:★★★★
---------------------------------------------------------
--------------------------------

仕事の本です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

蛇 日本の蛇信仰

吉野 裕子    講談社学術文庫

2007年9月(8/29)Hebi





お気に入り度:★★★★★
---------------------------------------------------------
------------------------------------

 日本の基層は蛇だらけ、という本である。これはおもしろい。

【蛇信仰はどこからきたのか?】
 ・・ということは、この本のテリトリー外のようだが、どうしても気になる。私的にみれば蛇はあまりに気持ちが悪いので、この説明なしに、「昔から信仰していた」と言われてもどうも収まりが悪い。
 蛇の形態が人間の男根を思わせ、縄文人の生命・性に対する崇拝、畏怖、歓喜が凝縮されて象徴になったということや、蛇(特に毒蛇)の強烈な生命力と攻撃性から、さらにまた、脱皮=再生を思わせることから蛇を崇拝していったというのは分かるにせよ、もう少しすっきりした説明でありたい。

 やはり蛇神の元は水の神ではないか。昔々、魚や木の実をもとめて沢を登っていて(こういう場所に限って蛇が多いのだ)、とある淵で夢中で魚をとっていて、ふとみると目の前に蛇がとぐろをまいていた、あるいは襲ってきた、なんて話はざらにあったのではないか。ここに「蛇様、家族のために魚を少し取らせてください」という状況が出現し、「ここにくればいつでも魚を分けていただける」ことから、蛇が川の主、あるいは山の主となって、蛇神という信仰にいたったと思う。オーソドックスであるが、これが基本であろう。水を支配しているのだから、無茶なことをすると、水が得られない、水害という攻撃もあることから敬うという信仰心も発生するのはよくわかる。

 大陸・中国にも龍信仰があって、日本列島へ入ってきて蛇と融合したのか?それとも、蛇をトーテムした信仰をもつ蛇族が中国大陸沿岸あたりから日本列島に渡来し、沢筋にはあまりに蛇が多いので、連中は歓喜して、列島に拡がっていっのか? 一方中国では、人間が沢筋から平野に降りてきて、大平野に見合う大きな神として「龍」を構想した。帝王は人民にメシを食わせるのが大きな役目で、そのメシの元になる龍神は強大な帝王を象徴するものとされ、龍の姿は、宮殿、玉座、器物などに描かれたということか。
 いずれにせよ、陸上、水中で主のように自由に活動することができる蛇が水の神として、龍神や海神として崇められるようになったと思われる。

 女性蛇巫(へびふ)が神蛇を祀り、神蛇と交わり、神蛇を生むこと。円錐形の山の神、蛇の神体に似た樹木、石柱などの代用物で交合のもどきをするというのは、この後のことだろう。あの神武天皇も蛇巫から生まれたという。

【蛇信仰は形を変えて潜在化】
 われわれの先祖が縄文時代から蛇を信仰していたことは事実のようだ。そのときは蛇は絶対の信仰の対象であったが、時代が下るにつれて人々の蛇信仰の中に、畏敬とは別に嫌悪が含まれてくる。この二つの要素のため蛇信仰は次第に蛇の象徴物の中に埋もれていき、しまいには蛇の存在も分からないまま信仰が続いてきたという。
 最初、縄文土器や土偶には直接蛇が図案化されていた。出雲の佐太神社の竜蛇神はとぐろを巻いた蛇そのままがあしらわれている。このとぐろ巻が三輪山のような神奈備山の信仰につながっていく。
 蛇に見立てられた植物は、蛇の男根類似形状から、ビロウ、シュロ、その他の樹木、蛇行状から、藤、籐などのツタ類、蛇の目の類似からホウズキ。その他、蛇の物実としては、注連縄や祭で使われる綱引きの綱はそのものズバリであるが、鏡、剣、鏡餅、扇、箒、笠へと拡大していく。案山子や正月の鏡餅も蛇らしい。鏡餅はそう言われればそんな形をしている。
 とぐろ巻からは、仮屋(グロ:笹や藁で作った縄文時代小屋のようなもの)やトビ(稲藁を円柱状に積み上げて藁で屋根おおいを着けたもの)まで蛇だという。仮屋は産屋でもあって、これは蛇の脱皮のモドキであるとか身殺ぎ(したがって、禊である)ということまで論が進められていく。
 蛇は象徴に埋没して行ったとはいえ、われわれのの周りにたしかに存在し、信仰の対象や生活習慣の中に基層として生き続けている。

【蛇信仰はなぜ形をかえたか】
 さて、なぜ蛇信仰が地下伏流水のように消失せず力強く続いてはいるが象徴物に埋没してしまうのだろうか。
 それは、もともと、恐いもの、畏怖すべきものと水の恵みを与えてくれるありがたいものという2重性があったことからだと説明してある。これはたしかにそうだ。恐いからといって捨ててしまうには、その恵みを考えると畏れおおい。したがって、代用物をまつって利益だけは得ようとする。
 しかし、現実は、恐怖心を通り越して嫌悪>>ある種の畏敬になっているというのが普通だろう。
 一説によると、人が蛇を恐れるのは、あの蛇行という蛇特有の動きが原因らしい。われわれ哺乳類の祖先が、どんなに深い穴や狭い隙間に逃げ込んでも、クネクネと這って執拗に追いかけてくる蛇にどれほどの恐怖を味わったことか。これがDNAになっている、というのは理解できる。
 私が蛇をきらうのは、以上のこともあろうが、蛇は家畜をねらうからなのである。家畜といってもニワトリの卵だが。こどものころ、家でニワトリを飼っていて何度か鶏舎に蛇が入って卵を飲んだことがあった。また、玄関先に巣をつくったツバメの卵や雛をねらうのである。これも経験があり、そのときは長い竹竿ではたいて、家の前の小川にすてた(殺しはしなかったよ)が、それからツバメが巣にこなくなった。人間が社会生活を営むにつれ、昔のひともこれに類似した経験を何遍もして蛇に対して嫌悪感を強めたのではないか?蛇は裏では野ネズミや小動物を呑んで人間の役に立っているのに、である。
 常陸風土記によれば、ヤマト王権が(多分?)土着の人間を使って山間の土地を開墾させていて、「蛇が出て困る」という申立てに対して、開墾責任者が「棒でたたいて殺してでも追い払ってしまえ」といったシーンが描かれていたと思う。田を作るのに必須な水を司る蛇神をたたいて追い払えというのである。これはリアルな蛇を追い払えということと、蛇を信仰していた旧勢力に対し一撃を加えて追い払う、という2重の意味もある。
 時代の価値観が変ったというのか、時代が下ると、こういうことが一般化し、恐怖・畏敬が嫌悪に代わっていったのではないかと思っている。しかし、水の神である蛇を無視するわけにもいかないので、ヤマト王権は、鏡と剣をシンボルに用いたり、蛇巫アマテラスも日神ニュー・アマテラスと変化させたりするのである。
 かくて蛇神は地下に沈潜して、象徴物がそれとわからず、今も信仰の対象になっている。

 なかなかおもしろい論文で、いろいろ「なるほど」と思うネタを提供してもらって、蛇にまつわる話を「蛇の思い出」として書いてやろうか、という気になったが、またの機会に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧