縄文

2007年12月30日 (日)

日本の霊性 -越後・佐渡を歩く-

 梅原 猛    新潮文庫Reisei05

2007年10月(9/26)




お気に入り度:★★★★
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 越後といえば、翡翠、火焔土器、ウッドサークル。
 ヒスイは糸魚川の周辺、小滝川が主産地である。この地でヒスイが加工されたのは、なんと縄文中期、約4~5000年前という。ヒスイ文化は寺地遺跡や長者ガ原遺跡にて発掘されている。
 ところが中国では約5000年前からヒスイを元にしたというより稲作を中心とした大文明(浙江省・良渚遺跡)が展開していた。中国ではヒスイ加工品は玉(ぎょく)といって、単に飾りものということでなく、すでに精神的価値や経済的価値を現わすというコンセプチュアルな礼器となっていたようだ。このヒスイ文化が、同名の「越」というところから伝わってきたのかどうか?
 さてわが縄文人はなぜ苦労してヒスイを玉に加工したのか?それは、白を基調としたなかに緑が混じることに生命力を感じたのだという。これから不老不死の呪物となっていったようだ。弥生時代でもヒスイは勾玉に加工されるが、これは胎児の形をしていることから、生命力を感じて呪力を信仰していたらしい。
 さて、古事記の「越」神話では、越後のヌナカワヒメがヤチホコノカミ(すなわちオオクニヌシとみられる)と結婚する話があるが、これは弥生時代以降の大和の勢力(大和朝廷ではない)がヒスイほしさに政略的に婚姻をすすめたか、あるいは強権をちらつかせて征服した、ということを言っているのではないかとあった。そういえば、スサノオの「高志のヤマタノオロチ退治」とか、オオクニヌシが「越」を平らげたとか、出雲風土記の「越の八口」を攻めたとかいう話もあって、この話に対応しているのか。
 
 さて、火焔土器の火焔は蛇から変わっていったのではないかとか、ウッドサークルの巨木は蛇なのではとか、吉野裕子さん風に理解してみたいのだが、それを書くのはおいといて、地元のケーブルTVで見たのだが、四條畷あたりの神社の祭礼で巨木(の丸太)をそのまま御輿にしたものがあってど肝を抜かれた。これは一体なんだ?ストーンサークルの柱や諏訪神社の御柱祭となんらかの関係があるのだろうか?

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2007年12月29日 (土)

蛇 日本の蛇信仰

吉野 裕子    講談社学術文庫

2007年9月(8/29)Hebi





お気に入り度:★★★★★
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 日本の基層は蛇だらけ、という本である。これはおもしろい。

【蛇信仰はどこからきたのか?】
 ・・ということは、この本のテリトリー外のようだが、どうしても気になる。私的にみれば蛇はあまりに気持ちが悪いので、この説明なしに、「昔から信仰していた」と言われてもどうも収まりが悪い。
 蛇の形態が人間の男根を思わせ、縄文人の生命・性に対する崇拝、畏怖、歓喜が凝縮されて象徴になったということや、蛇(特に毒蛇)の強烈な生命力と攻撃性から、さらにまた、脱皮=再生を思わせることから蛇を崇拝していったというのは分かるにせよ、もう少しすっきりした説明でありたい。

 やはり蛇神の元は水の神ではないか。昔々、魚や木の実をもとめて沢を登っていて(こういう場所に限って蛇が多いのだ)、とある淵で夢中で魚をとっていて、ふとみると目の前に蛇がとぐろをまいていた、あるいは襲ってきた、なんて話はざらにあったのではないか。ここに「蛇様、家族のために魚を少し取らせてください」という状況が出現し、「ここにくればいつでも魚を分けていただける」ことから、蛇が川の主、あるいは山の主となって、蛇神という信仰にいたったと思う。オーソドックスであるが、これが基本であろう。水を支配しているのだから、無茶なことをすると、水が得られない、水害という攻撃もあることから敬うという信仰心も発生するのはよくわかる。

 大陸・中国にも龍信仰があって、日本列島へ入ってきて蛇と融合したのか?それとも、蛇をトーテムした信仰をもつ蛇族が中国大陸沿岸あたりから日本列島に渡来し、沢筋にはあまりに蛇が多いので、連中は歓喜して、列島に拡がっていっのか? 一方中国では、人間が沢筋から平野に降りてきて、大平野に見合う大きな神として「龍」を構想した。帝王は人民にメシを食わせるのが大きな役目で、そのメシの元になる龍神は強大な帝王を象徴するものとされ、龍の姿は、宮殿、玉座、器物などに描かれたということか。
 いずれにせよ、陸上、水中で主のように自由に活動することができる蛇が水の神として、龍神や海神として崇められるようになったと思われる。

 女性蛇巫(へびふ)が神蛇を祀り、神蛇と交わり、神蛇を生むこと。円錐形の山の神、蛇の神体に似た樹木、石柱などの代用物で交合のもどきをするというのは、この後のことだろう。あの神武天皇も蛇巫から生まれたという。

【蛇信仰は形を変えて潜在化】
 われわれの先祖が縄文時代から蛇を信仰していたことは事実のようだ。そのときは蛇は絶対の信仰の対象であったが、時代が下るにつれて人々の蛇信仰の中に、畏敬とは別に嫌悪が含まれてくる。この二つの要素のため蛇信仰は次第に蛇の象徴物の中に埋もれていき、しまいには蛇の存在も分からないまま信仰が続いてきたという。
 最初、縄文土器や土偶には直接蛇が図案化されていた。出雲の佐太神社の竜蛇神はとぐろを巻いた蛇そのままがあしらわれている。このとぐろ巻が三輪山のような神奈備山の信仰につながっていく。
 蛇に見立てられた植物は、蛇の男根類似形状から、ビロウ、シュロ、その他の樹木、蛇行状から、藤、籐などのツタ類、蛇の目の類似からホウズキ。その他、蛇の物実としては、注連縄や祭で使われる綱引きの綱はそのものズバリであるが、鏡、剣、鏡餅、扇、箒、笠へと拡大していく。案山子や正月の鏡餅も蛇らしい。鏡餅はそう言われればそんな形をしている。
 とぐろ巻からは、仮屋(グロ:笹や藁で作った縄文時代小屋のようなもの)やトビ(稲藁を円柱状に積み上げて藁で屋根おおいを着けたもの)まで蛇だという。仮屋は産屋でもあって、これは蛇の脱皮のモドキであるとか身殺ぎ(したがって、禊である)ということまで論が進められていく。
 蛇は象徴に埋没して行ったとはいえ、われわれのの周りにたしかに存在し、信仰の対象や生活習慣の中に基層として生き続けている。

【蛇信仰はなぜ形をかえたか】
 さて、なぜ蛇信仰が地下伏流水のように消失せず力強く続いてはいるが象徴物に埋没してしまうのだろうか。
 それは、もともと、恐いもの、畏怖すべきものと水の恵みを与えてくれるありがたいものという2重性があったことからだと説明してある。これはたしかにそうだ。恐いからといって捨ててしまうには、その恵みを考えると畏れおおい。したがって、代用物をまつって利益だけは得ようとする。
 しかし、現実は、恐怖心を通り越して嫌悪>>ある種の畏敬になっているというのが普通だろう。
 一説によると、人が蛇を恐れるのは、あの蛇行という蛇特有の動きが原因らしい。われわれ哺乳類の祖先が、どんなに深い穴や狭い隙間に逃げ込んでも、クネクネと這って執拗に追いかけてくる蛇にどれほどの恐怖を味わったことか。これがDNAになっている、というのは理解できる。
 私が蛇をきらうのは、以上のこともあろうが、蛇は家畜をねらうからなのである。家畜といってもニワトリの卵だが。こどものころ、家でニワトリを飼っていて何度か鶏舎に蛇が入って卵を飲んだことがあった。また、玄関先に巣をつくったツバメの卵や雛をねらうのである。これも経験があり、そのときは長い竹竿ではたいて、家の前の小川にすてた(殺しはしなかったよ)が、それからツバメが巣にこなくなった。人間が社会生活を営むにつれ、昔のひともこれに類似した経験を何遍もして蛇に対して嫌悪感を強めたのではないか?蛇は裏では野ネズミや小動物を呑んで人間の役に立っているのに、である。
 常陸風土記によれば、ヤマト王権が(多分?)土着の人間を使って山間の土地を開墾させていて、「蛇が出て困る」という申立てに対して、開墾責任者が「棒でたたいて殺してでも追い払ってしまえ」といったシーンが描かれていたと思う。田を作るのに必須な水を司る蛇神をたたいて追い払えというのである。これはリアルな蛇を追い払えということと、蛇を信仰していた旧勢力に対し一撃を加えて追い払う、という2重の意味もある。
 時代の価値観が変ったというのか、時代が下ると、こういうことが一般化し、恐怖・畏敬が嫌悪に代わっていったのではないかと思っている。しかし、水の神である蛇を無視するわけにもいかないので、ヤマト王権は、鏡と剣をシンボルに用いたり、蛇巫アマテラスも日神ニュー・アマテラスと変化させたりするのである。
 かくて蛇神は地下に沈潜して、象徴物がそれとわからず、今も信仰の対象になっている。

 なかなかおもしろい論文で、いろいろ「なるほど」と思うネタを提供してもらって、蛇にまつわる話を「蛇の思い出」として書いてやろうか、という気になったが、またの機会に。

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2007年12月 9日 (日)

日本神話の源流

吉田敦彦    講談社学術文庫

2007年8月(7/30)Shinwagenryu





お気に入り度:★★★★
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 ギリシャ神話とか印欧神話と日本神話を比較してどうするのかと思っていたら、比較神話学とはこういうことを研究するんですね、という本。
 日本神話と印欧語族系の神話には、神話に現われる祭祀=王権、軍事、食料生産の3機能体系にきわめて良好な一致が見られるのだということです。
 日本の三種の神器は、鏡、剣、玉ですが、スキュタイの神宝も3種の体系(盃、戦斧、耕具)があって機能として一致し、さらに、高句麗神話の三王が獲得した宝も3種の機能体系が見られるということです(表参照)。
 さらに、王権、軍事、食料生産は日本神話では、その主役を
三大神    (アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ)が司る構造になっていて、それPhoto は、インド・イラン神界では、ミトラ、ヴァーユ、アシュヴィンが、ローマ神界では、ユピテル、マルス、クリイヌスが、それぞれ司り、ここでも3機能体系に一致が見られるといいます。
 これから日本神話のある部分は、イラン系遊牧民(スキュタイ人を中心とする)の神話(ギリシャ神話を受容したか?影響を与えたか?)がその 移動と定着の過程でアルタイ系民族によって受容され、それが朝鮮半島を通じて日
 本列島に伝わってきて、記紀神話の体系の成立にあたって大きな影響を与えたという結論です。
 参考までに、岡さんによる渡来文化5パターンのまとめ表を
貼り付けておきます。Oka

 重要なのは、日本神話(天皇家の神話)の成立には、「話の要素に印欧語族の神話の影響がある」ということだけでなく、3機能体系に代表される支配者のイデオロギー(天から降り来たった神の子孫が主権者になり、同時に随伴した神々子孫が軍事をはじめとする支配層となって、食料生産にたずさわる土着の神々を支配するのが正しいあり方であるという構造)も受容したということでしょう。

 日本神話の構想者はおそらく、各氏族の伝承を断片的にいいとこどりで寄せ集めたのでなく、上記のイデオロギーの元により積極的に国の基本原理として設計したのでしょう。(と思っています)

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2007年10月23日 (火)

日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る

梅原 猛     集英社文庫76

2007年7月



お気に入り度:★★★★★
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 わたくしの「北へ病」や「津軽病」というのはずっと前に,「北のまほろば」の項で書いたとおりで,こういう本にはすぐ飛びつくのです。

 司馬さんが「北のまほろば」紀行を歩いていたころの1994年に,4500年前の縄文中期の遺跡である青森・三内丸山遺跡が発掘され,縄文文化の先進性が明らかになったきました。三内丸山遺跡では集落をなしていて,高床式建物とか倉庫の跡のようなものあり,柱の穴(高楼か?)も出てきたということです。土器等は段ボール数万箱というおびただしい量で,黒漆器も出てきたし,独特の形に整形された翡翠も出てきたらしいです。こうなると,縄文時代は狩猟・採集がメインであるとは言いにくいのではないか。
 梅原さんのこの本のオリジナルは1980年代半の刊行らしく,三内丸山遺跡の知見はないままに書かれていますが,その主張するところが証明された感じですね。
 東北の縄文文化は原始的文化ではなく,長い縄文期を通じて成熟してきた文明で,日本文化の基層をなすというのは間違いないでしょう。梅原さんは和魂洋才ならぬ「縄魂弥才」ということを言ってます。

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