神君伊賀越のみち(2)穂谷越え
これから穂谷へ向かいます。
さて、平井氏が、また沙弥安と「けんしき」がどこを案内したのか、それが問題です。
【かいがけ道傍示越】
星田から穂谷へ行くのは「かいがけ道」が最短でしょう。これは歩きやすい古道で、河内の傍示を通り傍示越えで大和傍示に至り、天王経由で穂谷に降りる。また、高船経由で普賢寺谷に降りるのも簡単です。
問題は河内傍示に伊丹氏がいることです。かつて摂津国伊丹城の城主であった伊丹兵庫守親興が、足利義昭に加勢して織田信長と戦った。結果、敗退し、高槻芥川城に逃げ込んだものの、この城も織田方の荒木村重に落とされ親興は討死した。残った「伊丹一族」は淀川を渡って交野の地に逃げこんだが、織田方の追手が厳しく、竜王山のうしろにある「傍示の里」に入り込んだ。伊丹氏が傍示の里にやってきたのは天正元年(1573)のことと言われています。
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/Part_4/page10.html
以来9年、せっかく安住の地を見つけた伊丹氏にしてみれば戦闘意欲はなくなっているにしても、30人もの武者が迫ってきたら、「まだ追って来るのか!」
と、悪くすれば死に物狂いで戦うことにもなるでしょう。家康は伊丹氏の情報も仕入れていて、そんな場所には近づかない。要は、危ないことはなにもしない、
誰にも会わない。これが行動の基本だったでしょう。
◆かいがけ道 ◆河内傍示
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