街道をゆく

2016年9月11日 (日)

星田の東高野街道

2016年1月13日



 冬の散歩を今頃!
 久しぶりに東高野街道に散歩にでた時の記録です。別にアップしなくてもいいようなもんですが、何か気になっていて・・・

 右手はパチンコ屋ですが、私有地というのはパチンコ屋のことでなく、正面の何かの業者の私有地です。少し先にバイクのおばさんが佇んでいますが。何かな?あの辺りまでは通行OKにしてくれてもよいのに。
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 大回りして、さっきのばいくのおばさんがいたところにきました。ここは東高野街道ですが、その縁は全然ありません。墓地への専用通路としてしまったようです。「東高野街道」の記載くらいあってもよさそうなものですが、そんなことにはとんと関心もないらしい。まあ、廃材置き場なんかとして転用されるよりかはマシとしましょう。R7313067

星田墓地のお地蔵さん
星田墓地はいつできたか知りませんが、相当古い。知り合いのお家の墓もココにありますが、古くて墓石も壊れ、手狭になった墓地を廃して、新しい敷地に墓を建てていますて。R7313078

何回もこの墓地には行きましたが、じっくりとお地蔵さんのお顔を拝見したことはなかった。優しいお顔です。

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お地蔵さんほど忙しい仏像はないかと・・・・だいたいは野ざらしで、時には首を取られたり、袈裟懸けに切られたり、おまけに自分のためにではなく、ほとんどは人様のために・・・まさに八面六臂のご活躍です。そのご活躍の結果がこのお顔にあらわれているのでしょう。まことに安らか。

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 これは自動車道路沿いのお地蔵さん。前後には工場があります。ちょっと騒がしいところですが、お墓参りの駐車車で隠れてしまうことも度々ですが、特に文句を言われることもなく・・・「これがワシの仕事なんや」と。まことに安らかであります。

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 この後、天野川に出て、川沿いのいつもの散歩コースに入って家に向かいました。

(終わり)

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2016年6月 5日 (日)

加守・長谷道から穴虫・長尾街道散歩

2016年6月1日


 葛城二十八宿経塚巡行で、二上山から第26番逢坂に向かう時、畑の春日神社に下山したが、それはやっぱり二上神社のある加守に下るべきではないかと思って加守に行ってきた。さらに、第26番経塚逢坂を調べて行くうちに、古来より大和からの行き来に「大坂山」や「大坂越え」が重要な役割を果たしていたこと、関連して、長尾街道や長谷みちなどが発展してきて、それに伴い、行者さんの道も影響を受けたであろうと思えてきた。
 今回は加守の二上神社から長谷道で畑、畑から長尾街道に入って穴虫西の峠まで歩いて、「大坂越え」の探索に接続し、帰りも見落としの多かった旧長尾街道を歩くことにした。もとより、大昔の道筋など確定しようもないのだが、それでも近辺を歩いて、あれこれ推定するのは楽しいものだ。それが古道歩きの醍醐味とも言える。それでは、加守・長谷道から穴虫・長尾街道散歩


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◆穴虫西墓地の阿弥陀様

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2016年1月19日 (火)

古堤街道散歩(4)

2016年1月8日



 古堤街道つづきです。
 以前、住道から太子田までは歩いていますが、寝屋川沿いだったので、高いコンクリ塀しか見えず、たまらず太子田から古堤に入ったのでした。今回は逆コースで住道経由、中垣外まで歩きます。
 古堤街道のこのコースもカルタウォークの記録があります。参考にしながら・・・後参考ですけど。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kanahori/daitouwalkfuru2.htm

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◆中垣外の「すぐいこま」道標

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2016年1月16日 (土)

野崎道・旧古堤街道散歩(3)

2016年1月8日



 野崎道・旧古堤街道歩きも徳庵でウロウロしている内に、桂春団治さんが亡くなられたというニュースが飛び込んできました。9日午前0時11分、享年87歳(85)。かっこいい人やったなあと思う。シャキッと羽織を脱ぐシーンも何回か見せてもらった。ご冥福をお祈りします。
  たしか、「野崎詣り」が十八番の一つやったなあ。ボクが野崎みちを歩いている最中に亡くなられたとは・・・絶句ものですが、なにかのご縁なので落語「野崎詣り」を少し調べてみました。
世紀末亭さん:http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug124.htm (枝雀さんモノでっけど・・・)

 喜ぃ公、清ぇやんが「えぇ時候になったんで、ひとつ野崎さんへお詣りしょ~やないか」というところから噺が始まる訳でございます。五月一日から七日は野崎さんの「無縁経法要」があって、大勢の人がお参りするのです(野崎参り、野崎詣)。野崎参りは江戸時代の元禄年間(1688~1704)から盛んになったといいます。ボクも昔お参りしました(電車で)。

 喜ぃ公、清ぇやんは、「・・・大坂城を通り過ぎ、片町、京橋、さて徳庵堤(注:ここは、とっくぁんつつみと聞こえる)にかかってまいりますといぅと、なんと申しましても、大勢の人でございます。」
 ここで、喜六が「歩き疲れた」と言うので、清八は「住道まで歩かさへん、舟でいこかい」となるのですが、「それはいやや」と喜六。
 これからすると、おそらく今福のあたりから舟に乗るようになっていたと思います。野崎詣りの時期だけ、普段は荷物を運んでいた舟(肥えタゴ舟もあったのか?)に人を乗せるようにしていたらしいです。もちろんちゃんとした屋形船もあったはずです。
 徳庵川(井路)は1655年(明暦元年)に開削され、土手ができます。それが後には野崎道・古堤街道になります。今の川は寝屋川でコンクリートの垂直護岸で高い塀があり、川面さえも見えませんが、開削されて以後、徳庵堤の土手にはナタネがたくさん植わっていたのでしょう。また、ナタネ畑も周辺にたくさんあったのかも知れない。5月のこの時期は「どこを向いても菜の花盛り」という光景だったのでしょう。そこをのんびりと野崎参りの舟がゆく。
 喜ぃ公はいやいやながら舟に乗っていくのですが、「しゃべってんと口ん中に虫がわく」というやっかいな性分で、徳庵川(井路)に入って、「道行く人とケンカでもしたらどうや」と指南され、おそるおそるながら口でちょっかいを出し、ワヤクチャ言って口げんかするのですが、そのクセすぐやり込められる。まことにのどかな徳庵堤の初夏の光景が語られます。
 野崎道・古堤街道は徳庵からは、諸福、太子田なの在所では川筋から離れる場合もありますが、おおむね川沿い、土手上を通りますので、住道までは、土手組と舟組とで言い合いしもって野崎観音に向かったのでしょう。

 春団治さんの落語聴きましょいな。まこと平和でのどかな河内平野の風情、そこをヤイノヤイノ言い合いながらお参りする大坂庶民の心根に触れることができ、ほっこりします。
改めて、春団治さんに合掌。

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◆古堤街道・中茶屋の道標

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2015年12月28日 (月)

野崎道・旧古堤街道散歩(2)

2015年12月27日


 古堤街道の今福からの続きです。
 古堤街道は、1655年に徳庵川(井路)開削されて以降は徳庵川(今の寝屋川)右岸を通って徳庵に至るようになりますが、それ以前は、旧大和川沿いに南に湾曲しながら今津(今の放出駅付近)を通り徳庵に至っていました。その道跡を徳庵まで歩いてみます。

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◆徳庵 洪水記念碑(というより、防水碑)

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野崎道・旧古堤街道散歩(1)

2015年12月27日


 久しぶりの街ブラです。河内水紀行の一部でもあります。
 カメラの修理品を受取に行った帰りに、京橋から野崎道、旧古堤街道を徳庵まで散歩しました。

 古堤街道は「大阪府誌」によると、「・・・・大阪市北區相生町國道第二號路線より起こり、東成郡鯰江村、榎本村、北新開荘村及び北河内郡今津村、古宮村、南郷村、住道村等を経て同郡四條村大字中垣内山間に於いて左右に分かれ、右は短距離にして奈良縣生駒郡井駒村に通じ左は少しく東北に觸れ田原村大字上田原國界より生駒郡北條村に通ずるものとす。・・・・」 というもので、大和への流通幹線である他に、野崎観音や生駒越えで寳山寺等に詣でる重要な街道でした。
 ボクは太子田から片町までの寝屋川沿い、住道付近、龍間付近、出店付近などと、部分的には歩いておりますが、河内から阪奈道路のぐにゃぐにゃを見ると、通しで歩く気力がどうしても湧いて来ません。
 今回は平地の街ブラ、(1)京橋から蒲生、今福、(2)極楽橋を渡って、今津、徳庵までを歩きました。

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◆京橋付近の古堤街道(野崎道)

■ここでちょっと、古堤街道関連の歴史の整理(主なものだけ)
・鯰江川は16世紀後期に開削。
  その後、三郷井路(五ヶ門井路と榎並井路)が今福の三郷橋の下で合流するようになった。
・古堤街道は鎌倉時代からあるらしいが、不祥。明治以前は大和道、奈良道など(住道までは野崎道とも)と言われ、野田から徳庵までは、(1)鯰江川右岸を蒲生、今福と来て、(2)旧大和川沿いに南に湾曲しながら今津(今の放出駅付近)を通り徳庵に至っていた。
・1655年:徳庵川(井路)開削。このとき以降は徳庵川右岸を通って、徳庵に至るようになった。
・1704年の大和川付け替え
 この後、
・1705年から、深野池干拓・新田開発。寝屋川を徳庵井路に繋げた
・1708年:徳庵井路に平行して六郷井路を開削。この井路は新開池干拓・新田開発による悪水を受け持った。
・明治以降は正式に「古堤街道」という名がつけられた。
・1907/28年:徳庵井路と六郷井路の仕切りを取り壊し、1本の寝屋川とした。
・1968年:第2寝屋川開設
参考文献:「河内平野の変貌と寝屋川の歴史」 山野寿男 ちんちょうち Vol4(2012)

それでは京橋から。

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2015年7月 2日 (木)

葛城二十八経塚巡行(計画編)

2015年7月1日



 1年ほどかけて「葛城二十八経塚巡行」を歩く。今回は計画編。

  葛城二十八経塚は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚を言い、友ヶ島から紀泉高原、葛城山脈(地理院地図には和泉山脈と書いてあるが)、金剛、葛城、二上山を経て大和川の亀の瀬に至る修験道の聖地である。もっとも、役小角自身が法華経八巻二十八品を埋納したのでなく、山岳修験道の発展にしたがって、後世に埋納された、さらにその経塚をひとつながりの行場として葛城修験は形成されていったという文献もあったが、いずれにせよ、葛城修験道の聖地だ。

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◆葛城二十八経塚の二十四番 平石峠(妙音菩薩品第二十四之地)

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2015年6月27日 (土)

神君伊賀越のみち(3)槍越え

 穂谷に来ています。ここで家康一行は仮眠休憩くらいはしたかも知れない。

【なぜ穂谷?】
 さて、家康一行はどうして、穂谷-尊延寺と、まっさきに穂谷に来たのでしょう。

~家康 伊賀越え~「つつきのみち」つつきはっけん実行委員会編 では
6月2日夕方、穂谷着、普賢寺の百姓新八と出会う。穂谷の白井家で宿泊。翌6月3日明け方、新八、穂谷の百姓忍兵衞の案内を受け草内の渡しまで

と、 えらく具体的に書いてあります。そういう文書があるのかどうかは知りませんが、新しく道案内を頼んだのは納得できます。ただし、「たまたま」新八と出会う というのが、分かりません。全くの予想ですが、「穂谷に行ったら、○○さんを訪ねて行けば便宜をはかってくれる」とアドバイスを受けたのではないか と・・・平井氏にすればそのくらいのことはできるでしょう。行き先々で「たまたま」援助者に出会った、というのはどうも考えにくい。道案内じゅずつなぎが きるように、予め信用できる援助者、縁故者を想定していたのかと思います。その位の戦略家でないと、天下は取れんぞ。
 狭戸から高船や天王経由で普賢寺谷に直接降りなかったのは、穂谷を中継点としたのかも知れません。
R0010816 ◆穂谷の里

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2015年4月 6日 (月)

河内・私市から山城・興戸へのみち(2)横峯越-興戸

2015年3月26日



 訳あって、河内、具体的には星田から山城は興戸(三山木でもいいですが)への最短経路を探っています。「天王道」を終って、天王、水取、普賢寺と進む訳ですが、天王に行くなら山道を通って、朱智神社経由でいくのが早そうなのですが、ここでまた道草します。

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◆横嶺越の定点観察

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2015年4月 5日 (日)

河内・私市から山城・興戸へのみち(1)天王道まで

2015年3月26日



 訳あって、河内、具体的には星田から山城は興戸(三山木でもいいですが)への最短経路を探っています。
 今回は、私市カントリーの谷筋にあったと考えられる道から峠(自称、くろんんど越としておきます)を探り、くろんど池に降りて、天王経由で興戸まで歩きます。途中、まだ歩いていなかった「天王道」を通ってみます。

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◆自称、くろんど越

 創元社「関西ハイキングガイド」を見ていると、星田妙見-今の星田園地-磐船神社-今の私市カントリーの中-くろんど池をめぐるハイキングルートだったことが示されています。この道は現在の私市カントリーゴルフ場の中を通るハイキングルートとは違い、ゴルフ場の中の谷筋を通っているようです。ゴルフ場の中は通れないので、府民の森・くろんど園地のスイレン池から兎が原を通ってくろんど池に至る道で、国境(現、府境)を越えるあたりから尾根に上がり、国境沿いに自称「くろんど越」に行ってみます。

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◆創元社「関西ハイキングガイド」第3版S50)

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