浪花八渡 大阪渡船場めぐり(2)
2016年9月9日
これから木津川運河を渡って船町へ渡り、木津川を渡ったり渡り返したりで大正駅に向かいます。
基本的に工場地帯でしょうな。明治の終わりから大正にかけて、木津川沿いや船町も埋め立てられ、セメント、製鉄、造船、化学などの大工場が進出し、臨海重工業地帯を形成しました。特に船町はひとつの島の様相で、今も造船、鉄鋼、重化学の工場が健在です。
大正わがまち百科:http://www.osakacommunity.jp/taisho/machi_wagamachi.html
大阪渡船公式:http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011242.html
■コースタイム
11:20 鶴町■昼食休憩 11:50
11:55 船町渡船場
12:20 木津川渡船場
13:03 平林貯木場
13:15 橋、渡船なし
13:30 コンビニ■休憩 13:40
14:07 千本松渡船場
14:38 落合下渡船場
15:00 落合上渡船場
(千島公園はパス)
15:38 大正駅
(源兵衛渡し跡へ2.5km)
■マップ
該当場所を手動で拡大してください。
4.船町渡船場
一路南下、船町渡船場へ向かいます。
渡船場への道すがら、鶴町1丁目は、戦前にGM工場があったという。実際にクルマを生産していたのだそうな。今はその面影はありません。
そもそも「鶴町」という名は、万葉集巻六の田辺福麻呂がよんだ「潮干れば葦辺に騒く白鶴(あしたづ)の妻よぶ声は宮もとどろに」の鶴からとられたらしい。なんと風流な!鶴町は明治期は海の底、大正2年に埋め立てが始まったそうなので、大正か昭和になってからの命名でしょう。昔の官僚にも風流なセンスをもった人がいたのだ。びっくりです。
ちなみに、これから渡る「船町」は、同じく「あり通う難波の宮は海近み海女(あま)娘子(をとめ)らが乗れる船見ゆ」の船からという。これも負けずと風流です。
以上、大正わがまち百科:http://www.osakacommunity.jp/taisho/machi_wagamachi.html から
待合の中には、船町、船町渡船の簡単な案内がありました。ちょっと簡単すぎか?
12:00ちょうどにゲートが開きました。この時間は乗客は流石にボク一人。
5.木津川渡船場
さすがに工場地帯です。船を降りていきなり日立造船、中山製鋼所、テイカと続いていきます。
12:10、中山製鋼所のプラント。ボクは鉄鋼業界で仕事をしたこともあるので、中山製鋼所さんはよいお客さんでした。直接の担当ではなかったですが・・
中山製鋼所工場の向うにループが見えます。あの側に渡しがあるらしい。
12:14、木津川渡船場の入り口
ここは港湾局管理の渡船です。それはいいとして、ナニ!次は12時45分。30分待ちです。
辺りにはナニもないので、とりあえずは待つしかありません。防潮堤を越えていく。
オレンジ色の船が係留されていました。
木津川渡船場の案内
ここは港湾局管理の渡船です。ここは元々、昭和30年12月からカーフェリー(松丸134トン)が運航していて、乗用車から大型トラックまで運搬し得る能力を持っていましたが、昭和48年に、上流部に千本松大橋が開通し、翌年からカーフェリーは廃止され、今は人と自転車のみを運ぶ渡船となっています。どうやら、これが港湾局管理の由来らしい。ほかは建設局管理で、道路建設の代わりという成り立ちと思います。ここは道路扱いではなく、港湾の中の「船」扱いのようです。
はしけは下流にちょっと大きな船は上流に。木津川はまさに海運の要として生きています。
12:45ちょうどにゲートがあき出港しました。
12:50、これは対岸の住之江区平林北側からの風景。新木津川大橋の高さ、アーチ、ぐるぐるラセンをみると、橋の上を歩いてみたいとちょっと思っています。
平林側の待合
6.住之江逍遥と千本松渡船場
■平林徘徊
渡船を降りるとそこは住之江区です。北河内にいると住之江区などは南港のコスモスクエアに行く時くらいしか通ったことがない。そのコスモスクエアにしても中央線経由だし。
ざっと調べると、住之江区は新田と埋立の土地のようです。
渡船の看板で、平林に貯木場が移ったというので、それを見に行きました。・・・が、材木などナニもありません。場所は、木津川渡船から一番近い第4貯木場(13:04)。
大正区「わがまちの足跡」によると・・・
元々、大正時代に木材会社が千島共同市場を設置したのが始まりで、千島から小林、千歳にかけて広範な木材の街が形成され、地内には広大な貯木池があったという。今の大正区内ですね(当時は港区か?)。
戦後、地盤沈下により貯木場の機能が低下したのにともない、港湾地帯区画整理事業が実施され、貯木池は住之江区の平林地区に造成されて、大正区内の木材業者は集団移転しました。
http://www.osakacommunity.jp/taisho/machi_wagamachi2.html
このころは輸入木材がメインの時代。
しかし、輸入元の森林の保護や自国産業の育成のため、原木での輸出が禁止され、加工木材の輸入しかできなくなったので、大阪港への木材輸入量は、1976年をピークに減少を辿ります。最盛期には、原木の丸太がところ狭しと浮かび、活気があった材木の街もかっての勢いを失ってしまいました。今はなんと釣師の天国か?WEBを見ていると釣り情報がやたら多いです。それだけ見ていると、なんとおめでたい話ばかりですが、これなんか見ると、「埋め立てても、埋め立てなくても大赤字!」という。
http://www.hex-eng.co.jp/functions/recycle/recycle03.html
現実はこうなんでしょう。
第4貯木場の横の池はすでに埋め立てられていました。
住之江区の公式ページなどにはこういうことはあまり載っていないような・・
■敷津運河をわたる
13:15、長大な新木津川橋をみる
敷津運河
13:19、柴谷側に降りてきましたが、短い距離とはいえ、ボク等みたいな遊び半分はよいとしても、仕事や生活で徒歩や自転車を引いてココを渡るのは、これはしんどい!渡船の重要性がよくわかります。
■井路川水路顕彰碑
13:40、コンビニで休憩後、加賀屋まで行かずに近道をします。コンビニ前の信号を渡った所・・・
井路(いじ)川の記
この付近は、昔は新田と呼ばれた広大な干拓地の一角である。
江戸時代以来、新田のいたるところに水利や運搬のため、井路川という水路が掘られ、昭和三十年頃まで豊かな農産物を積んだ小舟が行き交っていた。
近世大阪発展のため、新田農業は大きな役割を果たしてきし、井路川はまた新田の動脈でもありまた象徴でもあった。
いま、往時の面影の大部分が失われたが、新田に生きた人々の、開発と維持にかけた厳しい勤労と努力は、井路川の跡と共に長く記録されなければならない。
その通りであります。せめて、渡船巡りをして、新田と井路の痕跡でもよいから感じたいと思う。
■名村造船所大阪工場の跡地
13:56、北加賀屋辺りを歩いていると、どうも工場とは違う雰囲気の塀がありました。建物は工場の風情ですが・・・・
なかなかシャレています。後日調べると、名村造船所跡。これは聞いたことがあります。へえ、名村造船というのはココだったのか。
http://www.city.osaka.lg.jp/suminoe/page/0000257177.html
名村造船所大阪工場の跡は、平成19年(2007)に国の「近代化産業遺産」に認定されました。平成21年(2009)には「近代化産業遺産(名村造船所大阪工場跡地)を未来に活かす地域活性化実行委員会」が発足しました。一方、地元企業とNPOが中心となって北加賀屋エリアを創造性あふれる魅力的なまちに変えていく試みとして、「北加賀屋クリエイティブビレッジ構想」が始動し、現在「アート」を中心にした各種の活動が展開されています。
道理で、普通の工場の壁とは違うはずでした。地域の活性化につなげられるかどうか!
◆すみのえ忘備メモ
あまりにも知らないことが多いので・・・メモ
すみのえ・まち案内:http://www.city.osaka.lg.jp/suminoe/page/0000310246.html
すみのえものがたり:http://www.city.osaka.lg.jp/suminoe/category/425-1-0-0-0.html
すみのえ探索記:http://www.city.osaka.lg.jp/suminoe/page/0000066275.html
■西成区から渡る千本松渡船
住之江区から再度木津川を渡ると思っていたら、西成区に入ってから千本松渡船があるのでした。
14:07、千本松大橋ループ。大正区の登り口と合わせてメガネ橋と言われているらしい。この下から千本松渡船場に行きます。
待合
14:17、対岸から迎えに来ます。
14:22、南恩加島側の桟橋
14:23、南恩加島側ループ
メガネ橋、一度歩いてみたいですね。
7.南恩加島から落合下渡船場
さて、再び大正区です。ここも昔は新田の街。
新田は、江戸時代に泉尾、炭屋、千島、今木、平尾、中口、上田が、南恩加島、北恩加島、小林、岡田、千歳が江戸末期に開発されました
南恩加島新田は、2代・3代岡島嘉平次によって開墾されたので、恩加島新田と称しました。「恩」の字を入れたのは、開墾者の恩を忘れぬようにしたいという意味もあったようです。
当時はスイカ、キュウリ、ウリ、ネギなどがつくられ、特にスイカの栽培は有名でした。種まで赤いと言われたとか・・・今の港区あたりも含めての話ですが。
http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000000425.html
戦後、港湾地帯区画整理事業や大正内港づくりが始まり、大正内港づくりで底ざらえした土砂を平尾から南恩加島にかけて盛り土されました。今はほとんど町工場で、あまり見るものがありません。
14:38、落合下渡船場
平尾から対岸津守まで運行しています。
14:48、津守側です。結構たくさんの人が乗って行きました。
8.落合上渡船場
落合下から落合上までは単に北上するだけ。大型トラックが結構通るのでこわい。
この辺りから足が痛くなってきました。右足の裏のキックするところ。今日はスニーカーで来ているので10kmを越えると足に来ます。一応中敷も変えて少しはマシになっていますが。スピードも落ちたし、第一写真を撮る気もなくなった。
14:59入り口。
だれか一人、防潮堤を越えるところに佇んでいます。この人は結局乗船せず、写真だけ撮りに来ているようでした。
一人くらいしか乗ってないですね。
写真ではよくわからないですが、水色のユニホームではないですね。指定管理制かなにかにしたのでしょうか?
15:05 対岸に着きました。対岸は大正区千島。木津川水門は威風堂々
これで、大阪渡船巡りは終了です。ここから大正駅まで歩きます。
ところで、計画時はすぐ近くにある千島公園に寄る、となっていました。なんでわざわざ遠回りするのかと思っていたら、そこには「昭和山」があるのでした。
昭和山は、、尻無川河口の底ざらいをし、拡幅して大正内港化が図られた時に、その土砂を利用して山(確か33m)を作って、丘陵公園とし、「港の見える丘」とか「昭和山」とか称したそうです。その地域を職住近接と防災拠点の確保を図るために、官公庁施設、公団住宅を配置して防災拠点として整備した、とありました。
http://tenyusinjo.web.fc2.com/watasibune/6shouwazan/shouwazan.html
紀泉高原にも昭和山はありますが、また違う意味の名山?
15:38、大正駅着。
本日は20km、結構歩きました。
大阪渡船巡りでしたが、渡船の重要性はわかった気がします。それだけでなく、日頃はあまり行かない、港区、大正区、住之江区など、その土地を少しでも理解する端緒にはなったかなと。次回は渡船+橋巡りですなあ。もちろん歩いて。
さらに、今回は渡船巡りだったので行きませんでしたが、源兵衛渡跡に安治川を潜る地下道があるそうなので、そこは外せないかと・・・・大正から2.5km歩けば着き、西九条駅も至近なので次回はチャレンジしてみましょう。
最後に、以前から参考にさせていただいたサイトをあげておきます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/3939/index.html
(終わり)
| 固定リンク
「淀川」カテゴリの記事
- 浪花八渡 大阪渡船場めぐり(2)(2016.09.09)
- 浪花八渡 大阪渡船場めぐり(1)(2016.09.09)
- ■河内 治水のみち8 長瀬川をあるく(2014.01.03)
- 河内水紀行 寝屋川くだり(3)深野池跡ー京橋(2014.09.24)
- 河内水紀行 寝屋川下り(4) 京橋(2014.10.26)
「大阪渡船場」カテゴリの記事
- 浪花八渡 大阪渡船場めぐり(2)(2016.09.09)
- 浪花八渡 大阪渡船場めぐり(1)(2016.09.09)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント