穴虫・大坂越散歩
2016年6月1日
古来より大和から大坂への行き来に「大坂山」や「大坂越え」が重要な役割を果たしていた。今では、大坂越え=穴虫峠とピンポイントに説明する考えが主流のようなのだが、地図に描かれた穴虫峠に囚われず、「大坂越え」はもっと広く、北の関屋越えから南の穴虫越を含み、穴虫の大坂山口神社から始まる長い峠越えだったと捉えたい。
穴虫から、穴虫越えや関屋越え、田尻越えの地形をみると、穴虫の大坂山口神社を始点に、ゆるやかな登りが始まり、新旧の長尾街道や太子道を通って河内各所へ越えてゆくスタイルになっている。この穴虫の大坂山口神社を大坂越えの起点としなくてどうするという思いだ。記紀の記事にある、
・天皇が大和の西の守護神として「大坂神」を祭った(日本書紀崇神9年3月条)
・崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った(古事記)
というのは穴虫の大坂山口神社が最もふさわしいと思う。
今回は穴虫の大坂山口神社を起点としてまんじゅう橋の道標地蔵(穴虫越え/田尻越え分岐)に至る小径を歩いてみたい。
■マップ
◆明治44年発行、1/20000陸測図;「この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。」(400×264pic)
1.西穴虫を彷徨う
■西穴虫の旧街道
西穴虫の墓地からのスタートだ(12:18)。ここは穴虫の大坂山口神社の背後の宮山から続く丘陵の最高部あたりだ。実際は二上山の北の尾根がずうっと東の逢坂に向かってベロのように延びてきている根元のあたりだ。穴虫というのは元々そういう地形だ。
北側は、竹田川にむかって谷を切り拓いて作った住宅地が広がっていた。
(新)長尾街道の、穴虫における峠部分。ひそかにここが「穴虫峠」だったのではないかと思ったりする。穴虫の人たちからすれば、今の地図に載っている穴虫峠など、なんで穴虫やねん、ということだろう。行政的には穴虫だろうが、太子峠といった方がよいのでは?それに河内から見た呼び名だし。
すばらしい路地がたくさんある。路地といってもメインの道も路地みたいなものだが・・・
■北の谷のほうに降りてみた
街道筋から少し外れても、とてつもない大きなお屋敷がある。今の穴虫西は昔は西垣内といった(明治44年の地図にある)ようだ。穴虫東(馬場)も含めて、新旧長尾街道筋に面しているので運送にかかわる仕事や当麻詣、長谷詣などの参拝客相手の商売で栄えたらしい。また、穴虫は古代より研磨剤の原料となる金剛砂の産地であり、それで商いする商人も活躍しただろう。
谷は結構広く、遠くに高山台の住宅地が見える。将来はどうも、この谷も住宅で埋めつくされるような気がする。
路傍に咲いていた鮮やかなホタルブクロ。ボクがよく見たのはもっと白い花なのだが、地域性があるのか?
2.小峠を越す大坂山口神社参道
え!大坂山口神社!一瞬2つあるのかと思った!登り道になっているので、さもなくば奥宮か?
鳥居右手には、穴虫東(馬場)への道が続いている。鳥居左手は今登ってきた坂道だ。
鳥居を振り返ってみると、正面に二上山が見えた。
ははーん、馬場の人が遥拝にくるのか。いや、二上山から神様が降りてきて、鳥居を通って、里宮・大坂山口神社を訪れるのだろう。そのための正面参道。当然ながら、長尾街道を行く人や、穴虫西の人がお参りする道でもあるんだろう。
12:36、参道は峠を越してくだりになった。
実に見事な参道だ。下り参道など初めてだ。
12:38、溜め池があった。
振り返って見る正面参道
12:42、下ってきた先は大師堂の泉だった。
大師堂と泉。よくある弘法大師が見いだした泉ということだろう。泉には魚が泳いでいたが、昔は飲料にも使っていたのだろう。
すばらしい参道だった。人々がお参りする参道であると同時に、まさに、神が降臨する道だという感じがした。
晴徨雨読「穴虫考」によれば、今下ってきた参道の谷は別所ヶ谷、その東の丘はゴボ山(御坊山)というらしい。
例えば、別所ヶ谷:http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/8bce9b1d53f05e7504fd8b0f52bb907f
http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/d4fe6d8e15b5c1d69d0c0b969d642cf7
http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/35d8e90f9ca00c7e622142d3afb4fcbe
その御坊山突端には大師堂と泉がある。泉の裏手にある石碑の一つには、「檀特山」(インド仏教の修行の地)と彫られていた。神社だけでなく仏教の聖地でもあるような感じだ。
話は外れるが、この穴虫近辺の徘徊を思い立ったのは、葛城二十八宿経塚巡行で、第28番経塚がなぜ逢坂の個人宅にあるのか?ということから始まっている。その経塚はどこからか移設されたらしく、元あったのは穴虫峠(ダイトレの先の)ではないかという考えがあるようだ。この大坂山口神社とその裏手の谷参道、それを取り巻く丘をみていると、こんなところにこそ経塚を置かんかね?という気がしてくる。特に、参道を登っていった鳥居あたり、さらにその周辺の丘あたり。丘に登れば、二上山は間違いなく見えるし、明神山も見えんかな?
12:43、大坂山口神社着
3.ゴボ山外周道をくだる
河内国境の穴虫峠からの帰りに、今度はゴボ山外周道をくだってみた。
穴虫峠/田尻峠分岐・まんじゅう橋道標地蔵の辻からは、R165バイパスを通ってみることにした。
15:07、太子道が上がってくる石田川筋
新長尾街道、バイパス方向。
ゆるやかな峠を越える道だが、バイパスの歩道を歩いてみる。
振り返って穴虫峠/田尻峠分岐を見る。
15:12、高いところから見たらよくわかると思ったのだが、見込み違い。クルマが多くて道の向こう側に行けなかった。
15:18、バイパスからR165に戻る道を見つけて戻ったが、長尾街道旧道が分岐するあたりだった。ちょっと高みなので、大坂山口神社裏手の丘(ゴボ山?)の頭が見えた。
15:23、同じところを通るのもなんなので、お寺の角を曲ってみた。
ちょっとうろうろしつつ、外周道にもどる
少し高いところを通っている。
15:26、なるほど、ここに出てくるのか。
二上山を見ながら降りて行く。
振り返って坂上を見る。
住宅の路地みたいなところに入り込んで、行き止まりかと思ったが、外周路にもどった。
15:34、穴虫東(馬場)の長尾街道。大坂山口神社には寄らなかった。
ここから、関屋みちで近鉄関屋まで帰った。
穴虫周辺をうろうろしてみて、「大坂越え」は確かに穴虫の大坂山口神社から始まっていると思った。大坂越え=河内国境の穴虫峠とピンポイントに説明する考えが主流のようなのだが、地図に描かれた穴虫峠は今の行政の都合ではないか?それより、「大坂越え」はもっと広く、北の関屋越えから南の穴虫越を含み、穴虫の大坂山口神社から始まる長い峠越えだったと捉えたほうが自然に思う。
記紀の記事に・・・・
・天皇が大和の西の守護神として「大坂神」を祭った(日本書紀崇神9年3月条)
・崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った(古事記)
・天武天皇八(679)年十一月に竜田山と大坂山に関を置いた(日本書紀)
とあるが、当時のヤマト王権がそう設定したのも大いにうなずける。
穴虫の大坂山口神社の裏手の谷みちは、清澄で歩いても楽しい道だったが、その峠を登り切ると二上山を望める。まさに神様の通り道にふさわしい。さらに、登っていくと穴虫西を通り、長尾街道の峠を経て、まんじゅう橋の道標地蔵に至る。この道こそ(狭義の)大坂越えではないかと強く思った次第である。
(終わり)
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