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2015年6月

2015年6月27日 (土)

神君伊賀越のみち(3)槍越え

 穂谷に来ています。ここで家康一行は仮眠休憩くらいはしたかも知れない。

【なぜ穂谷?】
 さて、家康一行はどうして、穂谷-尊延寺と、まっさきに穂谷に来たのでしょう。

~家康 伊賀越え~「つつきのみち」つつきはっけん実行委員会編 では
6月2日夕方、穂谷着、普賢寺の百姓新八と出会う。穂谷の白井家で宿泊。翌6月3日明け方、新八、穂谷の百姓忍兵衞の案内を受け草内の渡しまで

と、 えらく具体的に書いてあります。そういう文書があるのかどうかは知りませんが、新しく道案内を頼んだのは納得できます。ただし、「たまたま」新八と出会う というのが、分かりません。全くの予想ですが、「穂谷に行ったら、○○さんを訪ねて行けば便宜をはかってくれる」とアドバイスを受けたのではないか と・・・平井氏にすればそのくらいのことはできるでしょう。行き先々で「たまたま」援助者に出会った、というのはどうも考えにくい。道案内じゅずつなぎが きるように、予め信用できる援助者、縁故者を想定していたのかと思います。その位の戦略家でないと、天下は取れんぞ。
 狭戸から高船や天王経由で普賢寺谷に直接降りなかったのは、穂谷を中継点としたのかも知れません。
R0010816 ◆穂谷の里

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2015年6月26日 (金)

神君伊賀越のみち(2)穂谷越え


 これから穂谷へ向かいます。
 さて、平井氏が、また沙弥安と「けんしき」がどこを案内したのか、それが問題です。

【かいがけ道傍示越】
 星田から穂谷へ行くのは「かいがけ道」が最短でしょう。これは歩きやすい古道で、河内の傍示を通り傍示越えで大和傍示に至り、天王経由で穂谷に降りる。また、高船経由で普賢寺谷に降りるのも簡単です。
 問題は河内傍示に伊丹氏がいることです。かつて摂津国伊丹城の城主であった伊丹兵庫守親興が、足利義昭に加勢して織田信長と戦った。結果、敗退し、高槻芥川城に逃げ込んだものの、この城も織田方の荒木村重に落とされ親興は討死した。残った「伊丹一族」は淀川を渡って交野の地に逃げこんだが、織田方の追手が厳しく、竜王山のうしろにある「傍示の里」に入り込んだ。伊丹氏が傍示の里にやってきたのは天正元年(1573)のことと言われています。
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/Part_4/page10.html

 以来9年、せっかく安住の地を見つけた伊丹氏にしてみれば戦闘意欲はなくなっているにしても、30人もの武者が迫ってきたら、「まだ追って来るのか!」 と、悪くすれば死に物狂いで戦うことにもなるでしょう。家康は伊丹氏の情報も仕入れていて、そんな場所には近づかない。要は、危ないことはなにもしない、 誰にも会わない。これが行動の基本だったでしょう。
P1120109R1219917 ◆かいがけ道          ◆河内傍示

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2015年6月24日 (水)

神君伊賀越のみち(1)星田まで

 今年は、慶長20年5月7日(1615年)の大坂城落城と翌8日の豊臣秀頼の自害により大坂夏の陣が集結、豊臣の時代が終って400年ということです。その400年を迎えて、大坂は盛り上がったというと、そうそうは盛り上がらなかったようです。別の夏の陣では盛り上がったけど。
 大阪ではどちらかというと家康人気はないですね。しかし、真田幸村(実名は信繁)の真田軍の活躍はめざましく、大方の大阪人は幸村ファンなのではと思う。

 ここではあえて、大阪ではあまり人気のない(と思う)徳川家康の伊賀越えのルートをたどってみます。
底本は、「徳川家康 伊賀越逃走記」西井長和 著
     「星田と徳川家康公」西井長和 著
Scn_0001 Scn_0010 ◆西井長和本

 この西井氏の想定ルートをできるだけ辿っていくという趣向です。しかし、ゴルフ場等に遮られている場所もあるので、そこはパスして、通しで歩いているのでなく、細切れで繋いでいます。従って、写真に写っている季節もまちまちです。
 おことわりですが、ボクは家康を「神君」というほどもてはやしもしないし、かといって全くキライな訳でもない。ちょっとニスイ(方言です、大阪の「ずっこい」、や「こすい」に近い)と感じられるのがイヤですが、評価すべき点も多々ある。好ききらいの話は置いといて、ごろがいいので「神君伊賀越え」と書いていきます。

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2015年6月 8日 (月)

能見越または久多越

2015年5月29日



 「いまだ越えず丹波越」の続編です。
 久多からは、冬場は交通遮断になるという、久多越(能見越)で帰ることにしました。峠越えで能見口まで歩くことで、久多の苦労も少しは分かるかも知れません。
 元々、「丹波越」をテーマにしているので、峠を越えて丹波(広河原は今は京都市だが、元来丹波だった)まで足を運ぶのも意味があるではないかと、単にこだわりだけですが。

R0012347
◆久多峠(能見峠)

 その「丹波越」のネーミングをつらつら考えていますが、桑原から峠を越えたら丹波だから丹波越というのがどうしてもしっくり来ない。久多が丹波だったら何も問題はないのですが、そういう時期があったのかどうか?丹波(たんば)と思って峠を越えたら山城だったとうことになりかねない。ツジツマ合わせのために、「丹波氏」の持ち山の谷または尾根を越えたので「丹波越」とか考えてはみたけれど、イマイチ?が残ります。いろいろ探していると、「タバ」は元々は「タワ」で垰、即ち峠なのではないかという記述がありました。
www.myayabe.net/web/modules/blog/print.php?blog_id=7(現在リンク切れ)
 この「丹波越」は元々桑原側にある丹波谷から来ているだろうし、その谷は、そもそも「たんば」でなく、「たば」と呼ばれています。ということなら、丹波越を越えたところは丹波(たんば)でなくても全然構わないことになります。国境を越えて丹波(たんば)に入るなら、ちゃんと、丹波越(たんばごえ)と言ったでしょうが、国境越えでもない峠なので、単に「たわ、たば」で、「たば谷」「たば越え」と言った。こんなところですかね?
 それなら、いまから能見越で(元)丹波に行こうとしているのは、いったい何?ということになりますが、昔の行商人もおそらくは久多から広河原や大布施、花脊あたりまでは行ったでしょう。

 少しすっきりしたところで、出発(12:12)。
Cut_2

 この地図は昭和43年発行の五万図で北山を歩いていた頃に、カラー刷りが出たというので買ったものですが、「久多越」と記入しています。昔から、気になっていた峠だったようです。

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