神君伊賀越のみち(3)槍越え
穂谷に来ています。ここで家康一行は仮眠休憩くらいはしたかも知れない。
【なぜ穂谷?】
さて、家康一行はどうして、穂谷-尊延寺と、まっさきに穂谷に来たのでしょう。
~家康 伊賀越え~「つつきのみち」つつきはっけん実行委員会編 では
6月2日夕方、穂谷着、普賢寺の百姓新八と出会う。穂谷の白井家で宿泊。翌6月3日明け方、新八、穂谷の百姓忍兵衞の案内を受け草内の渡しまで
と、
えらく具体的に書いてあります。そういう文書があるのかどうかは知りませんが、新しく道案内を頼んだのは納得できます。ただし、「たまたま」新八と出会う
というのが、分かりません。全くの予想ですが、「穂谷に行ったら、○○さんを訪ねて行けば便宜をはかってくれる」とアドバイスを受けたのではないか
と・・・平井氏にすればそのくらいのことはできるでしょう。行き先々で「たまたま」援助者に出会った、というのはどうも考えにくい。道案内じゅずつなぎが
きるように、予め信用できる援助者、縁故者を想定していたのかと思います。その位の戦略家でないと、天下は取れんぞ。
狭戸から高船や天王経由で普賢寺谷に直接降りなかったのは、穂谷を中継点としたのかも知れません。
◆穂谷の里
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