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2015年1月18日 (日)

綾部通信(6)綾部大橋とグンゼ博物苑

2014年11月11~12日


 イナカで所要があり一泊で帰ってきました。お隣(家の上)と親戚筋の老人が相次いでなくなり、連続で通夜、告別式があったのです。不思議なことに!駅前のビジネスホテルが満杯で、少し離れた、ちょっと高めのホテルに泊らざるを得ませんでした。これを機会に、ホテル近辺の公園(紫水ヶ丘公園)とグンゼ博物苑を散歩してきました。そして橋巡りも。
 なにかあったのか、駅前の食堂も貸し切り!

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◆紫水ヶ丘公園の紅葉と平和塔

■新綾部大橋
 初日の告別式が終って、時間をもてあまし、タクシーを呼ぶほどの距離でもないので斎場からホテルまで歩きました。国道173にかかる新綾部大橋。クルマでは通ったことがありますが、歩いて渡っていなかったので・・・ただそれだけです。

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山陰本線を渡る
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 由良川です。由良川が山峡から出てきて平野部(盆地ですが)に差しかかるところです。ゆくり湾曲しているので、川の出口の正面のお家は、大水のときは生きた心地はしないでしょう。水色の橋が綾部大橋で、あの鉄橋の高さまで水位が来たことがあったらしい。
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橋を渡りきったところは・・・・
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若宮酒造です。綾小町のネーミングは「機を織る優しく美しい娘」のイメージだそうです。「蚕都」ですからね。

■綾部大橋
 翌日、ホテルの裏山にある紫水ヶ丘公園に行ってみました。なにを隠そう、ここは初めて。
 少し上がると橋の親柱があります。綾部大橋とあります。
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 今の綾部大橋はこれ、青い鉄橋ですが、狭い橋です。ここが由良川を渡るメインの橋だったのだ。
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少し拡大してみます。
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昨日の夜はこのまっくらな橋を渡って駅裏のメモリアルホールまで歩きました。今は先程の新綾部大橋と、少し下流に丹波大橋がある。

綾部大橋については・・・・
http://ayabe.city-news.jp/oohashi/001.htm
さすがに地元の新聞だけあって、詳しいです。連載7回もある!

 綾部大橋親柱を拡大すると・・・
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 その傍には、〈水の記憶の碑〉小公園 と書いた案内板がありました、。

  昭和28年9月25日、近畿、中部地方を横断した台風13号
により綾部地方は空前の大雨に見舞われ、連続降雨量は500ミ
リメートルにも達しました。この大雨による由良川やその支流の
増水で、市街地東北部の大部分が浸水したのをはじめ。上林、豊
里など広い範囲で土砂崩れや家屋の流失などが相次ぎました。そ
の結果、綾部地方全体で死者2名、行方不明者1名を数えるなど
史上まれに見る大災害となりました。
 この間、昭和4年6月に竣工した綾部大橋は濁流に洗われなが
らよく耐え、流失を免れましたが、同橋が改修された際、4隅に
設置されていた橋のシンボルともいうべき親柱は撤去されたまま
になっていました。
 それを見た上野町の町井貞一さんが、水害という自然の猛威を
記憶にとどめ、同時に水の恩恵を忘れないために、親柱を含む小
公園の設置を提案、その経費の寄付を申し出られました。この提
案に綾部市も心から賛同し、ここ紫水ヶ丘公園内に〈水の記憶の
碑〉小公園を設けることになったものです。

              平成15年9月25日

                  綾部市
         特定非営利法人由良川流域ネットワーク
            綾部市由良川改修促進同盟会


 昭和28年水害。9月24、25日、京都、大阪に大水害をもたらした台風。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2013/08/post-970d.html
京都は山城で、宇治川が決壊(場所は国道1号が宇治川を渡るところの少し東)し、旧巨椋池が忽然と姿を表わし、ということは、木津川ー宇治川間はほとんど全没。この時は肝心要のポンプ場が浸水し、排水ができなくなった。最近も由良川流域福知山で同じようなことがありましたね。
 宇治川ではこれを契機に天ヶ瀬ダム(1964)を造って、やっと抑え込んだということになります。この1月前も、この年は、7月下旬になっても長い梅雨が明けず、幾日も雨が降り続く状態のまま8月に豪雨に襲われた巨椋池地区は、特に木津川流域の井手町や中和束村(和束町)で大きな水害に見舞われ、多数の死者・行方不明者を出しました。
 綾部大橋はびくともしなかったのだ。写真があやべ市民新聞(時代の架け橋・連載4)にあります。http://ayabe.city-news.jp/oohashi/004.htm

 綾部大橋の横の河畔、多分このあたりだったかと思いますが、ずっと以前「綾部菊人形展」が開催されていました。

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◆由良川河畔、赤い橋は丹波大橋

 いつから始まったのか。WEBを調べてみると、諸説あります。

・昭和22年、あやべ菊人形開催
・第1回あやべ菊人形開催(ピーク時は年間6万人を動員)昭和23年から
・25年春には長男が綾部幼稚園に入園し、秋には綾部商工会議所主催の「綾部菊人形」が始まった
・綾部でも昭和25年から昭和38年まで「綾部菊人形展」が枚方菊人形展等三大菊人形展でしたが、どちらも無くなり・・・
多数決ではないですけど、どうやら昭和25年が正解のようです。
当時は丹波大橋などなかった。丹波大橋は昭和43年年5月竣工。そうすると、京都に行くバスは綾部大橋を通っていたのか?!あんな狭い橋を!

場所はもう少し上流、このあたりだったかも知れない。
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 それはともかく、菊人形の記憶はほとんどありません。小学校に上がるか上がらないかの頃、一度連れていってもらったことがあります。朝暗いうちからたたき起こされ、どうやら貸し切りのバスが出たらしく、それに乗るのだと。バスの記憶も、菊人形の記憶も全くなく、覚えているのは、会場内の建物のなかでうどんを食べたくらいでした。混み合っていて、落ち着かなかった。

 紫水ヶ丘公園を一回りします。

高城山。中世、山城のあったところです。 
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紅葉はまずまずキレイ。
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はて、なんの神社?Pb120380

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 市役所の建物越に三岳山が見えます。子供のころから登りたくて、いまだ実現していない山。

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■グンゼ博物苑
 午後の告別式まで時間があるので、グンゼ博物苑に行ってきました。
途中、丹波大橋からみた、綾部大橋。
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 ずんずん歩いて青野町まで。こちらの右がグンゼ博物苑。グンゼ記念館は金曜日だけの開館らしく、残念。
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グンゼ記念館は対面の瀟洒な建物です。
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◆グンゼ記念館

 グンゼ博物苑は、歴史蔵、ファッション蔵、新機能蔵、今昔蔵と会社の変遷が展示されています。館内は写真撮影禁止だったので、以後、文字だけです。

 グンゼといえば、一般には肌着の会社で、製糸業というか蚕糸業から会社を起こし(1896、明治29年)、メリヤス技術を活用して、肌着の会社になった。
 左から、歴史蔵、ファッション蔵、新機能蔵と並びますが、歴史蔵は樹木に隠れています。
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◆グンゼ博物苑  三つの蔵

 今、グンゼの沿革を見ていますが、このあたりサラッと書いてあるので、サラッと変革があったように思えてしまいますが、そんなスムーズにいったものでもないでしょう?
 1900年代の始めにレーヨンが出てきて、日本でも1920年あたりから普及してきます。「人絹」などと言って(バカにしていたかどうかは知らない)いましたね。そういえば、昔、ビスコースレーヨンとか銅アンモニア法とか習いました。キュプラというのはCuから来ているのか!このあたり、化学に興味を持つようになった一つの要因かも知れない。
レーヨンについては下記がおもしろい。
http://home.r02.itscom.net/ktym/aldehyde/box10/column-107.html

 レーヨンが爆発的に普及すると、生糸は壊滅的な打撃を受けるでしょう。「どないかせんとあかん」 グンゼも新しい道を模索したに違いない。悪戦苦闘の時期だったのではないでしょうか?この辺り、戦前戦中の様子が沿革ではよく分かりません。
 戦後、1946年(昭和21年)、宮津工場でメリヤス肌着生産開始(メリヤス肌着事業開始)とあります。戦争が終ってやっと道を定めた?メリヤス事業は、1959年梁瀬工場、1961年久世工場を肌着事業に転換し、事業を強化していきます。大転換だと思いますが。なんでメリヤスを覚えているかといえば、「莫大小」と書くので何でこれをメリヤスと読めるのか、そういう疑問を持っていたので。

以後、沿革を拾い読みしていくと・・・
http://www.gunze.co.jp/corporate/history/index.html
1952(昭和27年)・ナイロン製フルファッション靴下の生産開始
1958(昭和33年)・江南工場新設、合繊紡績事業開始。
1962(昭和37年)・プラスチック事業の開始(1968年守山工場設置)
1965(昭和40年)・ファンデーション事業開始(倉吉工場)
1967(昭和42年)・社名をグンゼ株式会社〈現社名〉に変更
製糸会社ではなくなったのだ。
1968(昭和43年)・パンティストッキング生産開始
1969(昭和44年)・機械事業部設置
1973(昭和48年)・緑化事業開始〈現・グンゼグリーン㈱〉
1974(昭和49年) ・グンゼ包装システム㈱設立
           (プラスチックフィルムの印刷加工・販売
1983(昭和58年)・エンジニアリング・プラスチックス事業開始
1985(昭和60年)・メディカル開発室設置〈現・メディカル事業部〉
          ・電子部品事業開始
          ・アパレル事業本部設置
           (メリヤス、ファンデーション事業部を統合)
          ・旧塚口工場跡地に「つかしん」オープン
1987(昭和62年)・グンゼシルク㈱を解散
ここで創業以来の蚕糸業から完全撤退

 創業の事業を捨てるというのは時代から言って当然かもしれませんが、だんだん綾部の会社でなくなっていった感じがして、綾部人にとっては残念という面もある。しかし、昭和の末まで90年余りにわたって。蚕業で綾部に影響を与え続けたのも確かなことでしょう。

 以後、沿革は省略しますが、肌着がインナーウエア、靴下がレッグウエア、繊維・衣服がアパレルというようになり、今ではフィルム(食品の包装フィルム、タッチパネルフィルム)や電子部品、メディカル(医療用の糸)まで手がけるようになった。「つかしん」の経営までしている。生糸からは思いもつかない転身で、百年企業にとって、この変身は見事というしかない。
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◆グンゼ綾部本社

 ここでは企業研究はしないので、詳しくは、博物苑に行くなり、ホームページをみるなりしてほしいですが、創業者である波多野鶴吉さんについて知りたかった。しかし、博物苑もグンゼのサイトも「波多野鶴吉が郡是製絲株式会社を設立する」から始まっているので、それでは、なんで綾部が生糸でメシを食っていたかというのが分からないのです。
 関連情報をWEBで探してみると・・・
http://www.ayabun.net/minzoku/gunze/gunze.htm
http://www.tanaka-law.net/shoujou/sj2013/sj20130528.html
http://kansoubun57.seesaa.net/article/394960375.html:(心野琴線さん)

 心野琴線さんのサイトによると・・・・
 波多野鶴吉さんは、「羽室嘉衛門の次男として誕生し(安政5年、1858年)、8歳で上林郷馬場村の波多野弥左衛門の養子になる。その後も、学業を納め、種々の事業を始めるが、その全てが挫折失敗に終わり、ついには養家波多野の資産の全てを食い潰してしまうほどだったという。自暴自棄になった波多野鶴吉は、京の巷間に遊び、放蕩を続けた。
 さすがに「これではあかん」と思ったのでしょう。地元延村(今の以久田橋の東か)の小学校の代用教員になる。「翌、明治16年(1883)25歳、初めての家庭訪問の時、女生徒の玄関の戸を開けると、屋内から漂い出て来る饐えた臭気。担任する学級の生徒の中で出席が著しく悪いのは養蚕農家の子弟子女であったという、当然成績も振るわなかったでしょう。当時の養蚕農家の生活実態は困窮を極めていたという。」そこで一念発起、代用教員をしながら、合間を見つけて養蚕農家を歩き回り、更に詳しい調査と研究を続けて行った。
 ayabun.netによると・・・
http://www.ayabun.net/minzoku/gunze/gunze.htm
 ちょうどその頃、「明治十八年、東京で開かれた全国五品共進会において、京都府出品の繭について『本会出品中、恐らくは粗の魁たらん」、生糸については「該地方は人皆旧慣を墨守し、単に内地の需要にのみ充つるをもって、繰糸の方法は極めて拙く束装も区々なり』と」、酷評も酷評、もうボロクソですな。
 当時、「信州、東北、関東地方の蚕糸業は機械化、工場化、そして品質向上の研究が着実に実行され、輸出体制が既に整っていて、明治初期には蚕糸業は主要輸出産業としての地位を確立したのに反し、綾部の蚕糸業は、奈良時代からの歴史を誇るにもかかわらず、旧態依然たる製法で且つ輸出には関心を示さず、内地向生糸の生産だけに甘んじ・・・・」
と書いてあります。当然ながら、波多野鶴吉さんも「どないかせんとあかん」と思ったでしょう。これが契機となって、「明治20年(1887)29歳、羽室組製糸会社二十釜繰を開業、群馬より帰っていた高倉平兵衛氏を責任者とし、滋賀県より宮川長兵衛氏を招き、養蚕伝習所を開設し、その受講修了者を郡内各所に派遣し、養蚕技術の改良に努めた・・・」(心野琴線さん)。さらに、明治29(1896)年38歳に郡是製糸株式会社を設立ということになります。
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◆再びグンゼ記念館

 波多野鶴吉さんの思想については省略してしまいますが、グンゼ記念館に行けば展示があるんだろうか?
 若い頃、勉学にいそしんだまではよいが、色々な事業に手を出し、失敗の揚げ句、自堕落な生活を送ったが、養蚕農家の困窮を見るにつけ、一念発起して養蚕を志し、会社を起こした青年がいた。彼等の努力のおかげで、100年たらずではあったが、養蚕・蚕糸でメシが食えた。その末裔の一人がここにいる。綾部出身の者として、感謝するとともに、誇りに思う。

 この辺りをもっとアピールしてもよいのではと思います。グンゼ博物苑の蔵展示だけでは分からなかったので、長々と追加しました。

さて、グンゼ博物苑は展示の蔵の他に、あやべグンゼスクエアとして、綾部バラ園とあやべ特産館がが併設されています。バラ園を見て回ると、アンネのバラというのが有名だそうです。また、イングリッド・バーグマンといバラもある。既に盛りの時期は過ぎて、剪定に入っていたようですが、気に入ったのはこの「ドルトムント」。「ドル富むんと」ではありません。いつか庭に植えてやろう。

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◆ドルトムント

 「あやべ特産館」は2014年5月24日の誕生だそうです。駅前の物産館より相当大きいし、カフェもあります。抹茶アイスはおいしそうだったけど・・・・来るならここまで足を延ばすべきです。ボクはこれから告別式なので、ここで喪服に着替えさせていただきました。

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◆綾部駅裏が駅前になりそう

 用事が終って、心引かれながらも 高城山とグンゼ研究所を見ながら駅に急ぎました。

(おわり)

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コメント

それはそれは、大変でしたね。
綾部は、子供の頃、釣りに行った記憶があります。朝、未明に出発して、シンドかったです。
由良川は、「カムバック・サーモン」で有名でしたね。小さかった頃のCMです....。

投稿: エセル | 2015年1月18日 (日) 13時23分

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