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2013年12月19日 (木)

■河内 治水のみち5 剣畷(守口-放出)

2013年11月14日



茨田堤の若干のまとめ

 茨田堤のお話しは守口で終りですが、次の話題に少し関連もありそうなので、行く前に、茨田堤の整理をしておきましょう。整理といっても、古代のよくわからない事績ではきっちりとした整理もできませんが、それこそ「カン」でエイヤアと整理したもので、事実である保証は全くできません。

 今回、全面的に参照させてもらっている、いこまかんなび さんの記事「河内・摂津両国堤と放出」によれば、
http://www.geocities.jp/iko_kan2/sekka.html 

(A) 茨田堤については、古くから二重あったとされ、『大日本地名辞書』には「淀川の茨田堤は二線あり、一線は枚方伊加賀崎より守口を経て難波大坂に至る者是外堤なり、一線は島頭にありて断間の決潰に備ふる者是内堤なり」という。

(B) 堤の西端は、何処の堤と接続されたのかよく分からないが、後に改めて設定された河内国と摂津国境の北西角に接続されたことは当然考えられる。

 二重の茨田堤については
【外提】・・・衫子絶間-対馬江(津嶋部神社)-守口-土居(守居神社)-強頸絶間・・・・・これは淀川本河の左岸の防備。寝屋川市の対馬江は古代は文字どおり「江」と考えられることと、土居の守居神社は土居を作ってその高みに造営され、天道神、太歳神、歳殺神、塞神社(八衢比古神、八衢比売神)など路傍の神、塞の神系の神様や清瀧明神が祀られていることから堤防道にあったと思われるからです。
【内堤】・・・石津-寝屋川・池田、大利-大和田(堤根神社)-島頭-稗島(堤根神社)-放出・・・・・これは旧古川左岸の防備。

 いずれも、淀川から河内湖の名残として残った深野池や新開池の低湿地に洪水が流れ込むのを防止するためでしょう。二重の茨田堤は、外提と内提の間は農地となり、後に茨田屯倉(みやけ)とされていたことからの支持されるものと思います。

10.剣畷

 さて、(B) は二重の茨田堤と連動させるように、後世(平安初期)、河内/摂津の国境に堤をこしらえて茨田堤に接続した、というのが、いこまかんなびさんの記事「河内・摂津両国堤と放出」の エッセンスです。それによると、『大阪府全誌』には、
舊記にいふ、河内茨田郡の土居村より、(摂津国)東成郡の馬場・般若寺・下辻・放出・左専道・深江 の諸村を経て、河内(国)渋川郡の東足代村に至り、連亘して(摂津国)住吉郡の平野郷に至れる国界に長堤あり、劔畷と呼べりと、堤跡は今も尚断続的に存在 せり
となっているので、実際にあったようです。
 その時期は、大同元年(806)10月、河内と摂津両国堤が定められた、と年表にはあるので、その頃かと思われます。それまで国境は明確に定まっていなくて、両国で争いがあったらしい。堤はすでにあったかどうかは分かりませんが、自然堤防はあって、道もそれなりについていたのでしょう。洪水で決壊するたびに「誰が直すんや、お前とこやろ」などという争いであったか?それを律令国家がきちんと決めて責任分担も決め、堤と道路を整備していった、このようなことかと思われます。
 また、http://music.geocities.jp/mtaketoshijp/newpage3.htm (古代伎人郷は何処 さん)にも同様な記述があり、これは守口のすぐ南にある高瀬神社が剣畷の基準になっています。また、ここにも書いてある。
http://www.city.osaka.lg.jp/tsurumi/page/0000001227.html

 今では痕跡はないのですが、そこを歩いてみたいというのが次の話題です。地図に放出までのルートを示しました(緑)。

より大きな地図で 劍堤 を表示

 コースは、守口(高瀬神社)-(横堤)-放出(アジハヤオ神社、諏訪神社)-高井田-深江-足代-小路(松尾神社跡、清見原神社)横野神社跡-巽(巽神社)-平野(杭全神社)・・・・こんなコースになります。あと、旧平野川沿い、旧大和川(長瀬川)沿いの堤防跡もコースにいれます。
 参考までに、いこまかんなびさんの「古代河内の洪水・治水年表」に、数点のデータを補充し、場所別に整理した年表を付けておきます。
「kawachi-settsusaigai.xls」をダウンロード


 それを見ると、河内は、洪水が度重なり、さらにその間には干ばつが襲うという、とてつもない場所であったというのがよく分かります。それに対して、時の律令国家は健気に対応している。 堤の修復はもちろん、例えば、

・弘仁2(811)、河内国税分銭300貫を3年にかぎり国内堤防決壊箇所の修築費にあてる、
・同年、任官待ちの徒で出仕せず郷里に居る者を、 3年間を限り河内国の雑任に起用、
・承和 15(848)、水災者の状況を巡検させ、近くの蔵をあけて救済する、
・貞観12(870)官は富豪の貯稲13,000束を借りて難民を救済、水源の大和国 の三歳神、大和神、広瀬神、龍田神に、水害が発生しないよう祈らせている、

等が事例として挙げられます。これを見ていると、河内に基盤を持った河内王権だけでなく、大和に引っ込みさらに平安京になった後の朝廷でも真剣に対応して いるように見えます。どの政権でも海に面した大坂の背後に広がる大平野は戦略地域として重要視したのだと理解しました。
引用年表:http://www.geocities.jp/iko_kan2/kawachi-kouzui.html

■京街道からスタート
守口の京街道遺構西端・義天寺前の石段からスタートします。

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歩くコースの一部は中高野街道で、時代によって守口から平野までは放出街道と言われたりしています。中高野街道は、平野の杭全神社からという話もありますし、今の守口駅前の十三夜坂を下りるところから始まるという話もありますが、歩く方からすればどちらでも よいので今は詮索しません。
 昔の国境の上の道をしのぶという立場からは、千林や太子橋付近から歩き始めたほうがよいかも知れません。堤防の遺構が残ってお ればそうするのですが・・・

■六叉路

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いかにも街道らしいカーブ道が見えています。方角を変えてみると六叉路。古い街道がある上にあとから新道をつけたのでしょう。

■高瀬神社

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 高瀬神社は、八世紀当時の摂津国と河内国の国境を推定して、その国境の上にあるとされています。また、聖武天皇の勅願により 創建、高瀬里、高瀬川の堤防上にあった神社ともいわれています。さらに、行基年譜にも「高瀬大橋在嶋下郡高瀬里」「直道一 所、在自高瀬生馬大山登道己上河内国茨田郡摂津国云云」とあり、行基が高瀬大橋を造り、高瀬より生駒山に達する直線道路を開通させたと記されています。こ の 高瀬里から放出の式内社阿遅速雄神社の西まで剣畷と呼ばれる堤防があり、この南北に延びる堤防が摂河の国境であったといわれていますが、それを立証する史 料はありません。
以上、http://music.geocities.jp/mtaketoshijp/newpage3.htm から引用。

P1290028

 この「古代伎人郷は何処」さんは、サイトを読んで行くと、
  守口・高瀬神社~放出:剣畷
  放出~平野・杭全神社:剣堤
と区別されているようですが、たまたま記述がそうなったのかも知れない。ここでも一応そうしておきますが、その上にできた道は剣街道としておきます。

P1290029

■高瀬川
 平安時代にもその川は流れていたそうで、歌枕になったそうな。歌碑だけ見ていると、花が咲き乱れ、まことにのどかな川端の里という気がしますが、ひとたび大雨が降るととんでもない事態になったのでしょう。

P1290030

■高瀬川跡
 高瀬神社の南の大通りを隔てたところに「高瀬川跡」の碑があり、ポケットパークみたいになっています。

P1290034

 Wikipediaによると、行基年譜に「行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋、橋を管理する高瀬橋院(行基四十九院の一つ)を建立」とあり、当時の淀川南流(現在の古川筋)から高瀬川へ通ずる運河大庭溝を開いていた、とあります。
 現在の淀川も八雲あたりで大いに湾曲し、守口、土居、千林付近めがけて向かってきて、そこでまだ湾曲する形になっており、当時はもっとひどく、高瀬神社辺りまで来ていたのかも知れません。そうすると、土居で土居を築いたことや千林の強頸絶間も、場所としては納得というものです。
 高瀬大橋は、【連載】大阪の橋では、今の豊里大橋のやや上流部らしい、と書かれています。
http://www.rikuryo.or.jp/home/column/bridge/031.html
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000023750.html
だいぶん位置が違いますが、そうすると、高瀬大橋は、今の高瀬神社から土居を結ぶ道路の延長で、古代、このラインが重要な街道だったのかも知れません。

これはおもしろいサイト:http://www.japanknowledge.com/contents/journal/howtoread/howto_93_1.html

■変則的な六叉路
 高瀬川跡碑のポケットパークの場所は例によって変則的な六叉路です。これから歩く街道がいかにも街道らしく湾曲して続いています。

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■旧道を進みます

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■今度は変則五叉路
 こういう場所はどちらを取るか迷います。

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鶴見緑地へ行く道が現在の市境なので、たぶんこれが昔の国境だと思って、鶴見緑地へいくことにしています。従って、左手の太いほうの道を行きます。まっすぐの道は中高野街道です。この辺りが馬場でこの先、南寺方となります。
交差点の北は護念寺で、角には、なぜか壁のほうを向いた地蔵祠がありました。

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■鶴見緑地
 昔、花博の開かれたところです。この前の道路は国道163なので、多分クルマで走っている。

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■横堤
 いかにも治水、利水堤防のあったような地名です。大きな通りが東西に流れていて、あとで地図をみると、まっすぐでなく少し斜めになって西に向かっています。

P1290053cc

 「河内国細見図」河内細見図     安永5(1776) をみると、横堤の付近には、北からは古川を含めた淀川支流が集まってきており、南からは大和川本流、支流が集 まってきて、4~5本が平行して西に流れています。おそらく、大雨の時にそれぞれの川が集中して、逆流をさせないように堤で分けていたのではないかと思わ れます。それで横堤。

Imgkawachisaizu

太い実線が郡境(一番左の今市-森河内・・・のラインは当時の摂津/河内国境)。放出の地名は載っていませんが、赤丸で今の放出駅の場所を示しました。

この地図は高井田西の念唱寺脇の公園にあった「河内国と摂津国境」の案内板から取りました。地図は大和川付け替えの後のものですが、旧大和川の分流が載っています。淀川分流も含めて、それらを水色で着色しています。

 横堤1丁目の信号(上の写真)を渡ったところに「剣畷」の碑がありましたが、道路の向こうだったので写真はパス。
 ブログ版『大和川水紀行』によると、横堤1丁目をしばらく南に行った三叉路は、かつては「広海」と呼ばれる井路を往来した田舟の折り返し地点になっていた。その井路の名残が遊歩道となって残っている、とありました。確かに遊歩道がありましたが、じっくり見ていません。
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2012-12-15
それにしても、この三叉路から左回りする円形の道はなんでしょうか。「広海」と関係があるのか?

より大きな地図で 劍堤 を表示

■放出大橋を渡ります

P1290056

■中高野街道の碑
 放出の正因寺前です。説明版には中高野街道は、剣街道とも呼ばれ、京都や大阪から高野山参詣の人たちが多く通ったた。この付近には付け替え前の大和川が流れ、「放手の渡し」があった・・・と書かれています。

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■夕暮れの放出踏切
 だいぶ暗くなってきたので、阿遅速雄神社もパスして、今日はこれで終りにします。阿遅速雄神社訪問記は:http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/ajihayao.html

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 守口(千林、土居、高瀬を含めて・・)から放出まで、剣畷と称される古代からの堤があり、その上に「剣街道」「放出道」と呼ばれる道が作られました。「剣街道」というのは阿遅速雄神社(八剣神社)の参詣道であったからとも言われています。ともかくも、それに類した道を歩きました。さすがに堤の痕跡はありませんでしたが、いろんな報告資料があって、守口から放出への道は、単に放出街道や中高野街道というより、もっと古くからの堤防の道であったらしいことは理解できました。


11.横堤

 「横堤」という地名が気になったので、再度横堤-放出を歩いてきました。
 地下鉄・横堤からまっすぐ南、最初は商店街でしたが、普通の住宅地になりました。静かな住宅街。住商兼用というところか。最後の突き当たり近くには大きな古家もありました。

■横堤八幡宮
 突き当たりの右手(西)には横堤八幡宮があります。

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 八幡様ですので、祭神は応神天皇、神宮皇后。さらに、比売大神。境内社には豊栄稲荷大神社、大地主黒竜大神社が祀ってありました。南北朝時代延文五年(1360)九月二十一日男山岩清水八幡宮より、分霊を勧請し横堤地域の守り神とした、元社名は産須那神社と称したが昭和三十年五月八日八幡宮と改称す。ということなので、本来の祭神は豊栄稲荷大神社、大地主黒竜大神社なのでしょう。

P1290067

 比売大神は分かりませんが。一般的な、本家宇佐八幡宮でも祀られている、宗像女神としておきましょう。応神天皇の勧請とともに祀られたと理解します。
大地主黒竜大神社は「おおとこぬし こくりゅうおおがみ」と読みます。竜神さまです。西流してくる川の流れを鎮めるためにお祀りし、さらに五穀豊穣を祈ったのだと思います。

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 考えるに、今となっては、水神とか五穀豊穣といっても周囲の人はピンと来ていないのでしょうね。それより、節分の豆まきであったり、夏秋のお祭りのだんじりであったり、七五三であったりするのでしょう。地区のだんじり保存会のサイトを見ている限り、だんじり命ではあるけれど、結構重要なことを地域に訴えかけている気はします。。
https://www.facebook.com/yoko.danjiri

■放出大橋
横堤八幡宮に近くは住宅街で、近くには古いお屋敷もありましたが、工場や倉庫などもあります。特にどうということもないので、寝屋川沿いに出て、放出大橋で旧街道(中高野街道)合流しました。

P1290081

橋から東方を見る。中央の建物の影に隠れているのが生駒北嶺です。

P1290085

■剣街道
 放出大橋を渡ったところで、中高野街道は西に少しずれてから、すぐにまた元に戻るようです、なんでこんな動きをするのかが分かりません。今回は、まっすぐ南下します。
 この街道もだいぶん新しい家が建ってきています。最初にこの街道を歩いたのは10年近く前ですが、かなり様子も変わってきました。しかし、まだ古家も残っています。

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■阿遅速雄神社

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ほとんどは前回までに見て回ったので、見てなかったものだけ

菖蒲神池

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 境内の北側に小さい池があります。これが菖蒲神池。その脇に石碑があります、その由緒によれば、仁徳天皇が病にかかられたとき、アヂスキタカヒコネが夢枕に立ち、「皇居の東方にある神池の菖蒲を供えて祀れ。そうすれば必ず御病は治癒するであろう」との神託があり、神池の菖蒲を祀ったところ、忽ちに平癒された。菖蒲は霊験あらたかな邪気払い・病魔除けとして端午節句に広く各戸の屋根の上に祀り、無病息災を祈る風習の発祥は菖蒲神池である」とあります(抜粋)。
 菖蒲は、ハナショウブのようなアヤメ科でなく、サトイモ目・ショウブ科です。イモのたぐい!しかし、昔はこのショウブを指して「あやめ」と呼んでいたのでややこしい。

P1290097

 池の中央付近に石で囲った島があり「道祖神社」が鎮座しています。道祖神は塞の神・道中安全の神として道の分岐点や峠の上あるいは村落の境界などによく祀られています。池の中というのは見たことがありません。川の道とか谷筋の道などもカバーするんだろうか?

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 神社由緒によれば、「阿遅鋤高日子根神、当地へ降臨して土地を拓き耕耘の業を授け、父・オオクニヌシの神業を助けられた。郷民は、その神徳を慕って、摂津・河内の国造神として、神が坐した此の地の守護神として齋き祀ったと伝える。」となっています。この近くでは、鴨のアジスキタカヒコネは菱屋東の八剣神社と永和の高鴨神社(※)に祀られていて、どちらも旧大和川の下流にあり、遡っていけば葛城の高鴨神社に行き着きます。逆に言えば、鴨氏は葛城から大和川に沿って大坂の海まで点々と拠点を設けていたのでしょう。(河内には、これ以外ない、という話がありますが、ボクは未確認です)

 (※)鴨高田神社の祭神は大田田祢古命孫大賀茂都美命(大鴨積神)ですが、鴨高田神は“加毛大神”すなわち鴨氏の祖神・アジスキタカヒコネ(オオクニヌシの御子)で古くから高井田の里に鎮座していたという説もあります。いずれにせよ「葛城賀茂」です。

 そうすると、阿遅速雄神社は鴨氏の最海岸べりの橋頭堡だったか。ここに祖神を祀るというのもうなずけます。

P1290103

境内を一回りして、放出踏み切りに向かいました。

(つづく)

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コメント

どこでもwalkin2 様

いこまかんなびの杜「河内・摂津両国堤と放出」を参照いただき有難うございます。
HPのURLですが、過年より下記のとおり移行しておりますので宜しくお願いします。

いこまかんなびの杜
http://ikomakannabi.g1.xrea.com

いこまかんなびの杜「河内・摂津両国堤と放出」
http://ikomakannabi.g1.xrea.com/sekka.html

いこまかんなび 原田

投稿: いこまかんなび | 2021年5月 5日 (水) 16時19分

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