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2013年12月13日 (金)

■河内 治水のみち1 木屋-絶間

2013年11月14日 寝屋川


 「河内 治水のみち」、そんな名前の道がある訳はないのですが、色々調べていくと河内の街道は堤防の上を通っているケースが多いのが分かり、その道をたどってみたいと思いました。
 夏に巨椋池跡を歩き、その後枚方あたりの淀川河畔をあるいた続編でもあります。もっと言うならば、以前、放出の阿遅速雄神社に行って、そのレポートを考えている時に、この阿遅速雄神社は、「旧の河内と摂津両国の境を南北に築造された長大な古代の国堤=劔堤上に鎮座し、古代の河内湖の東方に連なる生駒山、あるいは伝饒速日山=草香山を向いて鎮まる。祭神は、阿遅スキ高日子根神。住吉大社の子神として登場する「味早雄神」にあたり、住吉大神とは深いつながりのある古社の一つです。」
http://www.geocities.jp/iko_kan2/ajihayao.html (いこまかんなび さん)
という記述が見つかり、これは調べないといけないと思ったのです。
 さらにまた、長大な古代の国堤=劔堤は、守口から放出を貫いて足代以遠まで続き、茨田堤、横野堤、長瀬堤、渋川堤、平野付近の河内摂津両国の境堤等と連動して、河内湖を含む河内平野を、畿内中枢での豊な生産地域とするもので、難波の地を、大陸に直結する港津を構えた水上・陸上交通の要衝、各種先進技術をもった頭脳集団を集める地域として重視していたと考えられる、という意味づけがありました。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/sekka.html
 確かに、王権をさらに磐石にするため、戦略的に開発しようとしていたのではないか。そうすると、剣堤は王権の第2の支配縦軸です。劔堤は後の劍街道、改め中高野街道であるので、遺構はないにせよ歩いてみないといけないと思った訳です。

P1280777

 まずは近場の茨田堤と文禄堤から。あとは摂津/河内国境を走っていたという剣畷。以後、河内平野の主要河川跡を巡ります。

1.鞆呂岐神社

 京阪香里園からスタートします。ま、勝手知ったる地元の範疇ですが、ここ数年行く用事もないので、最近の事情はよく分かりません。香里園駅の西に立派なロータリーができていました。これなら寝屋川市駅にひけをとらない。以前は東口にロータリーはあるものの、直前の崖にはばまれてタクシーとバスがひしめき合っていましたし、西口は家や小さな店舗が密集していて昔風の(昭和40年代の?)駅前風景でした。
 とりあえず堤防の方に向かいます。

■木屋元町1-1
P1280730

 昔ながらの木屋(こや)の中心地みたいですが、水路の横に「馬場前橋」の石標があります。同じ字体のものが2本並んでいます?1つは新しそうですが・・・水路改修か区画整理をしたときにジャマになったか?

■鞆呂岐神社
P1280731

 道路の向うに神社が見えます。鞆呂岐神社。
 トモロギとは、古代の皇室の荘園という鞆(友)呂岐荘があって、仁徳大王の茨田堤建設で屯倉(皇室直轄領)になったことから鞆呂岐(木屋・太間・三井・田井・石津・平池のあたり)という地名ができたらしい。
エナガ先生:http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/14020618.html
寝屋川にはもうひとつ、トモロギ神社があります。友呂岐神社(香里本通町)

■鳥居も社殿も新しい!ピカピカですP1280733

P1280735

■奥宮
社殿の右奥には奥宮があります。P1280736

その鳥居は謂があるようですが、こちらに 寄進の鳥居:http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n050.html

奥宮の社殿の方が奥ゆかしい。P1280740

祭神は、天照大神、春日大神、住吉大神、恵比須大神、稲荷大神、蔵王権現(江戸時代)
明治維新の神仏混淆廃止で蔵王権現が廃され、代わりに豊受大神が祀られた。現在は息長足姫大神が祀られ、奥宮は 若宮八幡社(誉田別命)、稲荷神社となっている。これは大正かららしい。

■茨田蛇の池跡碑
P1280741

 社のそばに茨田蛇の池跡という石碑があります。社の後ろは池で、そこに神の蛇が棲んでいたのでしょう。この龍神(水神)が本来の神かと思われます。この地域の農民が土地や水利の守護神として祀ったのが鞆呂岐神社のはじまりでしょう。

石碑の裏には・・・・

茨田蛇の池は昔は赤井堤防まで一帯に大きな池であった 昭
和五十一年二月に境内整備のため氏子四百六拾数名の浄財
で石垣工事を施工 そのとき残っていた池を埋立てたので 後
世に伝へるためにこの碑を建立す  昭和五十一年十月

社殿の裏を覗いてみます。この田んぼもいつまで続くのやら・・・P1280745

P1280746

この地域にはこもまき御飯の行事があるそうです。
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/14020835.html

鞆呂岐神社について、詳しくは・・・
http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/tomorogi.htm

■淀川堤防に向かうP1280760

P1280761

■二十箇用水樋の記念碑
堤防の斜面に記念碑が建っています。近づけませんので別途調べると、二十箇用水樋の記念碑。文禄堤の築堤によって淀川からの取水ができなくなり、樋を設けて農業用水を確保して、二十箇村に配水していたものです。二十箇用水樋はその後数百年の間利用されてきました。こういうのを本当のインフラというのでしょう。しかし昭和5年(1930)に枚方合同樋門に統合され、二十箇用水樋は廃止になったためこの記念碑が立てられました。P1280763

2.茨田堤

■河川敷は広い
河川公園になっています。P1280765

排水場があるらしく、何か工事をしています。P1280767

■ポンプ場
P1280768

 この辺りには、枚方市さだポンプ場、木屋揚水機場、枚方土木事務所大間排水機場が北から順に並んでいます。これは土木事務所大間排水機場。こういうのがないと、利水も治水もままなりません。

■茨田堤碑
堤防上を歩いて、排水機場を越えたあたりに茨田堤碑があります。P1280771

茨田堤

 日本書紀に茨田堤の築造は、
仁徳天皇十一年とあり、これは
河川堤として本邦最初のもので
ある。築造は難工事で、強頚断
間、衫子断間の伝説がよくそれ
を語っている。
 当時淀川は水量も多く、平流
れに広い土地を河道としていた
が、それを二流に分け、その間
に農地を確保したのが茨田堤で、
一は現在とあまり変わらず西南
流し、一は南流して生駒山の西
辺で大和川と合していた。その
分岐点がこの碑の建つあたりと
考えられる。また土佐日記でい
う「わたの泊りの分れの所」もこの
地点としてよいだろう。

 茨田堤とは、5世紀頃、ヤマト王権が、旧淀川の河道を安定させて氾濫を防ぎ、内側の耕地開発を進めようとして造った堤防で、この碑のあたりから今の大阪市旭区付近まで続いていたといいます。
 日本書紀・仁徳11年条に、 「冬10月、宮の北部の野を掘って、南の水を導き、西の海に入れた。その水を名づけて堀江(現大川)といった。亦 北の川(旧淀川)の塵芥を防ぐために、茨田の堤を築いた」とあります。この位置についての証拠はありませんが、(A) おおまかにいって寝屋川市・門真市を流れる古川に沿っていて、寝屋川市木屋・太間(タイマ)の辺りから南下し、池田や高柳を経て、門真市・堤根神社の辺りに至るというものです。また、茨田堤については、古くから二重あったとされ、『大日本地名辞書』には「淀川の茨田堤は二線あり、(B) 一線は枚方伊加賀崎より守口を経て難波大坂に至る者是外堤なり、(C) 一線は島頭にありて断間の決潰に備ふる者是内堤なり」とあります。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/sekka.html

(A)と(C)の関係がよく分かりませんが、島頭は萱島の島頭天満宮あたりならば、(A)(C)は同じと言えるでしょう。また、寺前治一さんの「寝屋川史話100題」 No.008によると、池田南町の寝屋川幼稚園の北の路地が古来より茨田堤と称されてきたものである、とされているので、(A)は、大間から分流してくる水路の東、石津-池田-大利-門真市・堤根神社というラインかも知れません。
茨田堤:http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n008.html
寝屋川市サイト:http://www.city.neyagawa.osaka.jp/organization_list/kyoiku_shakaikyoiku/bunkasport/namesagasu/1378105672577.html
ここでは、この案(池田、大利を通るライン)を示しています。
 寝屋川はかつて勤務先があったこともあり、池田や高柳はさんざん歩きましたが、十分な低湿地で堤防の痕跡など聞いたことはありません。昔、飲み会の幹事のとき高柳に安くておいしい店があるというので探しに行きましたが、途中で夕立になり、瞬く間に道路に水が溢れてきて、舗装のすきまからアワがぶくぶく吹き出す始末で、革靴もびしょぬれになり、そのまま帰宅した経験があります。標高は約3mで十分低湿地です。
 それらしき痕跡は堤根神社にあるというので、後日いってみましょう。

より大きな地図で 劍堤 を表示

3.衫子断間

コロモコのタエマ と読みます。これは読めません。

■淀川堤防を太間に向かいます
 この場所は文禄堤のあった所です。しかし、文禄堤は高々2mくらいの堤防だったので、今の堤防より下の道くらいかと思います。そこは京街道にもなっているはずです。P1280779

 文禄堤とは、豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ最短距離の道として、文禄5年(1596)に整備したものです。実際は毛利輝元、小早川隆景、吉川広家が淀川左岸堤防を拡幅・補強しました。このとき右岸堤防はなかったとか!おいおい、治水はないのか?右岸に住んでいる人はふんだりけったりです。
ここの蔵は段蔵になっています。P1280781

■太間天満宮
堤防を下りて太間天満宮に行ってみます。左手の紅葉の森が太間天満宮です。P1280785

 太間の地名は、絶間、断間から来ています。ここは茨田堤の造営において、衫子断間(コロモコのタエマ)の人柱伝説のあったところです。P1280786

P1280788

 茨田堤は、渡来人(秦人もしくは新羅人が携ったと言われている)の高度な築造技術をもってしても困難を伴ったでしょう。日本書紀には、「どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、それぞれの箇所に1人ずつ河伯(川の神)への人柱が立てられた。候補は、武蔵の住人の強頸(こわくび)と河内の住人の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)で、強頸は泣きながら入水していき、衫子はヒョウタンを使った頓知で死を免れた。結果は2か所とも工事は成功し、それぞれ強頸の断間(こわくびのたえま)・衫子の断間(ころものこのたえま)と呼ばれた。」という意味の記述があります。

P1280790

 強頸の断間は現在の大阪市旭区千林、衫子の断間は寝屋川市大間に当たるとされています。標柱には、「茨田連衫子が機知をもって生贄となることを免れた現場(衫子断間)は、ここから、400m東方」と、えらく確定的に書いてありますが、そこへ行っても寝屋川導水路以外なにもありません。昔は古川が淀川本流から分流しているところだったのでしょう。
茨田連衫子も人柱に指定された時は必死だったに違いありませんが、「それはよかったね」ぐらいにしておいて、後世の人間が機知とか智恵があったとか偉かったとか、あまり言わない方がよいでしょうね。
ころもの子絶間:http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n007.html

P1280804

 静かな神社です。ご祭神は天満宮なので菅原道真と茨田連衫子となっています。ご祭神について、神奈備さんのサイトをみていると興味深い記述がありました。
http://kamnavi.jp/en/kawati/taima.htm

衫子は、衫子の断間である当地に昔から小社を建てて祀られていた。菅公のほうは、近くの三井の若山に壮麗な天満宮が造営されていたが、慶長三年(1598)に焼失、再建に当たって座争いがあり、それぞれ分社を作った。太間村では衫子社に合祀した。後に、菅公の末裔の方がこの地の有力者となり、衫子のことは忘れられてしまった。そこで、神霊を友呂岐神社から受けて祀った。
 享保五年(1720)三月八日、再建。
 明治五年中、石津村村社若宮八幡宮に合祀された。
 明治十五年、復旧。
 明治四十三年、友呂岐神社に合祀。
 昭和四十二年、独立。神社を再建した。この時、道真を主神、衫子を地主神とした。


菅公に軒を貸して母屋を取られた感じで、菅公崇拝の流行も困ったもんですが、衫子は忘れ去られずに、ちゃんと絶間以外の友呂岐神社に祀られていたのだ。さらに、昭和42年になってではあるが、忘れずにちゃんと縁の土地に呼び戻した。これは、寝屋川の人に敬意を表します。この話は知りませんでした。友呂岐神社にも行ってみなければ・・・成田山近くですね。

 拝殿横には役目を終えた狛犬さんが並んでおりました。

(あ)おい、わいらも長いこと狛犬やって、衫子の断間はここやと聴いたけど、強頸の断間は知らんなあ、おまえ知ってるか?
(ん)千林と聴いたけど、みはりが忙しいて行ったことないわ、わいも知らんなあ。
(あ)せやな、ずっと動けへんかったしな。
(ん)ま、ゆっくり安もや・・・

お疲れ様でした。

P1280797

 外側の茨田堤(後世の文禄堤の位置)と内側の茨田堤の間は、堤の造営が成功することによって、農地となり、後に茨田屯倉(みやけ)とされた。この屯倉の設定も初めてのことであったらしい。

■絶間橋
 天満宮を退去して、水路沿いに点野方面に向かいます。村を出たところでタバコを吸っていると橋が目に入りました。1号線バイパスの高架がうっとうしいですが、村を出て行くところのたまり場の感じです。

P1280806

P1280808

反対から、たえまばし を見ています。自転車の人が村に帰っていきました。

P1280813

水路沿いは遊歩道ができています。春にはサクラが見事にさくことと思います。

P1280809

これで絶間は終りにして、点野に急ぎます。

(つづく)

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