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2013年12月16日 (月)

■河内 治水のみち3 太間-佐太-大庭

2013年11月14日


   

 いったん、太間にもどり(頭の中で)、再スタートです。
 このまま、堤防上の京街道を守口まで行ってもよいのですが、金田の津島部神社に寄りたいので、堤防道から離れて、途中、点野から仁和寺を通っていきます。

 

6.津嶋部神社へ

■太間水路のみち
水路沿いの道を歩きます。
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別に遊歩道という訳ではないでしょうが、気持の良い道です。ただし、旧国道1号が横を走っているのでうるさい。こういう状態が守口の大庭あたりまで続きます。

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■茨田樋跡
水路側からだと住宅が建て込んで、入口がよく分からなくなっています。農家があって田んぼもあったのですが、パッと見ではあまり目立たなくなっている。入口でちょっとうろうろしました。

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茨田樋はもう遺跡です。
案内板の説明を一部要約すると・・・・
 現存している樋遺構は、明治38年に造られ、昭和5年に廃止されされました。それまでは、池田・点野・対馬江・仁和寺など市内西地区をはじめ門真・守口市方面の人々の生活を支えていました。淀川左岸の用水樋門は、枚方から毛馬までに8箇所ありましたが、堤防決壊の恐れがあるため昭和初期にすべて廃止、遺構が現存しているのは、この「茨田樋跡」だけになっていました。
 淀川・寝屋川・大川に囲まれた北河内・なにわの一帯に点在する集落では、高度成長期前まで水路に設けられた“ひなだ"と呼ばれた水辺の洗い場があり、野菜 や食器洗い、衣類などのなど洗濯も行っていました。上水道が引かれても「もったいない」として飲料、煮炊き以外は“ひなだ"を活用する人も多く、水辺で は、こどもたちが泳いだり魚とりを行なうなど、用水路は各集落のコミュニケーションの場でもありました。また、年に1回、村人総出の “川浚え"“どべ上げ"と呼ばれる共同の川普請もして、大切に扱われていました。

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 今では信じられないですが、かつては、大川(旧淀川)の水で千利休が茶の湯を立てていたといわれています。今では 「よろがわのみる のんれ、はらららくらり」ですから。あ、これも死語か。
 しかし、「共同の川普請」スピリットは現在でも生きていて、この茨田樋水辺公園は市民も参加して行われたものです。

■今でも、「どべ上げ」は健在

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 わんどの清掃などが継続して行なわれています。足腰強い世に中になりつつある。国土強靱化とはこういうことを言うのでしょう。

■水辺公園にも新しい住宅が迫りました
 住んでいる人は全然関係ないのですが、ちょっとは遠慮して造成したら・・・と言いたい。

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■河川敷はいつ見てもすばらしい。

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 このブログの最初の記事は2,005年5月5日の淀川溯行でした。なので、ここは通っているはずですが、茨田樋は気がつかなかった。河川敷の下を歩いていたのと、歩いている本人のマインドが追いつかなかったのです。

■点野信号で村の中に入ります
なんたってうるさいので。

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どうせ外れるなら、点野、葛原、対馬江、高柳、仁和寺の旧村を見ていけというのもありですが、建売住宅や工場が建て込んでいて、丹念に探していかなければならないので、それは後日にします。

■仁和寺
 ここは、にわじ と読みます。昔から不思議だったのですが、仁和寺の法師のにんなじ から来ているのではないのか?
 京都の「仁和寺(にんなじ)」を造営したときに造営料所になったこと、その所領であったことに由来すると考えられます。また、大昔はこの場所は「にわいじ」とよばれていたそうです。
http://asahi.co.jp/call3/diary/yamaken/chimei_24.html
http://www.city.neyagawa.osaka.jp/organization_list/kyoiku_shakaikyoiku/bunkasport/namesagasu/1378169703925.html

■ねや川文化と歴史のみち
 寝屋川では歴史文化コースのみちが整備されています。しかし、ゴミネットを被せてしまっては・・・

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ボクも何度か利用させていただきましたが、現在、少し調べてみるとなかなかの文化財が配置されています。今回のウォークは水神探しの様相ですが、まだまた見残したところがありそうです。古いと言って侮りがたし。
http://www.city.neyagawa.osaka.jp/organization_list/kyoiku_shakaikyoiku/bunkasport/coseitiran/1378280415759.html
本家のサイトはあまりにあっさりしすぎなので、こちらが詳しい。
http://homepage3.nifty.com/kamo_a_n/hatikaduki/Hatikaduki2.htm

仁和寺にはまだこんなところも残されています。丹念に歩こうかという気になっています。

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■仁和寺交差点をわたる
ここの葬儀場にも来たことがあります。

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■津嶋部神社
 ここからもう守口市です。しかし、この津島部神社は、はじめ寝屋川の対馬江にあったと伝わっています。そういう訳で、対馬江の神社ということで来てみました。
http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n065.html
 鳥居前の道路が狭い上に歩道がない。そこをクルマがどんどん通ります。枝切街道ですが、こんな街道とは知らなかった。頃合いを見てダッシュ!

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 ご祭神は、津嶋女大神、 菅原道真、 素盞嗚尊。菅原道真は寛永年間からの合祀です。この地方、菅原神社など、道真を祀る神社がやたらあります。津島女大神というのがよく分かりません。

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 この神社が、そもそも、対馬江にあって、その対馬江が、かつての淀川の支流・古川の中州が「津島」と呼ばれて、往古の船着場であったことから「津島江」と呼ばれたことから来ているのか?はたまた、この地に津嶋氏が住んでいた、あるいは縁の地であったことから津島部神社になったのか?あるいは、九州の対馬との交流があった江だから、対馬江になったのか?

津島氏、津島地名を調べてみると、
ousar.lib.okayama-u.ac.jp/file/20100/ouisekinenpo_015_050_058.pdf‎
 岡山大学文学部教授 狩野 久 氏講演録 「津島」の地名の由来 から抜粋します。

1)津島直は玄界灘に浮かが対馬の豪族である。
2)律令国家では、占いをする専門職として卜部がいて、ト部を構成する人が20人いるうち 10人が津島直が率いる対馬の人をもって構成するということになっていた。あと10人のうち5人は壱岐の人、後の5人は静岡県の伊豆の人(伊豆7島のほ う)である。この人たちは毎年対馬からはるばると海を伝って大和へやってくる。毎年やってくるのが大変なので、大和や都に住み着く人たちも出てきた(京卜部)。この京卜部の中で出世したのが津島連ではないか。
3)しかし、律令国家は京卜部は認めながら,何人かは現地から必ず来ることを厳命した。対馬の豪族たちは大和にやってくるのに船でやってきた。そして途中で一服する。その世話係をしたのが津鳴部である。
4)津島という地名は
一見、自然地形的な地名のように見えるが、津嶋部にもとづく地名である。津嶋部というのは人間の名前で、津嶋部を名乗る人が一人,二人でなく、かなりたくさん住んでいた。津島はそういう人文地名だ。

 納得できる説明です。愛知県の津島はどうだ?というのは残りますが、それは後で詮索するとして、対馬からト部の専門職・津島直(や、津島連)がこの地の江(港)で上陸して、それを応対する人がここに居た。あるいは 住み着いた対馬の人がいた。それで、ここが対馬江と言われるようになり、津嶋部神社も設立された。対馬の民が本貫の地の「津嶋女大神」という名の祭神を 祀った。
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50554104.html

 津嶋女大神はなお不明ですが、宗像女神、市杵嶋姫命ではないですか?そうすると、海の神、水の守護神、子孫繁栄など安産・育児の守り神でもあります。境内末社に厳島神社もありますが・・・・
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/815f503f9819f18774b03d76a3d0c3f7

P1280873

■拝殿横に石組み 六角形の石が中央に座っています。

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磐境という説明はありませんでしたが、いかにも・・・という姿をしています。

■ハト公害
ハトが入れる水辺を作ってあげて。
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 対馬江に川港があった。ということは、堤もあったはずでしょう。それが、茨田堤の外堤なのか、内堤なのかは分かりません。
 これから佐太天神宮へ向かいます。

より大きな地図で 劍堤 を表示


7.佐太天神宮から京街道

■また裏口から失礼します。
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■与謝蕪村の句碑があります
あまり読み下りませんが・・・

窓の灯の 佐太は未だ寝ぬ 時雨かな      蕪村

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 解説碑に「この碑文は蕪村が丹波から故郷毛馬に帰る途次時雨降る淀川の夜舟から見た佐太村の情景で自然を静観し、人間的な暖かさを謳う俳聖蕪村翁の文人画家としての面目躍如たるものがある。われら有志は由緒深きここに碑を建て衆とともに永く翁を偲ぶ機縁としたい」と刻まれています。蕪村は毛馬の人、丹後宮津に住んだことがあるというので、姓を与謝としたという。

池もありました。水が涸れかかっていますが・・・
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■本殿、拝殿
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 当地は菅原道真の領地であったところで、昌泰4年(901)、道真が太宰府に左遷され、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられます。道真は、ここで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰もなく、筑紫へ下向することとなった、とあります。そこから、「佐太」の地名ができたとか?

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 道真が太宰府でなくなってから50年後のに、里人がその徳を慕い、道真が残していった木像を御神体として祀ったのが、当社の創建とのことです。

■豪商淀屋が寄進したという石井筒

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■長い参道
 鳥居の前は1号線バイパスです。鳥居横に道標がありましたが、昔の京街道と参道の交点にあったもののようです。そこから一丁半で佐太天神とか。逆に、門前から一丁半たしたら、そこが京街道。
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■佐太の渡し場の跡
国道1号バイパスを渡り、水路を渡ったところに石碑がありました。向うに見える今の堤防を越えたあたりが佐太の渡し場だったでしょう。そこは天神浜といって、年貢米の積み出し場だったとか。
http://www.yodo-museum.go.jp/kikaku/kikaku06/kika6_a04.html

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■佐太樋跡
水路沿いに少し歩いていくと、佐太樋跡の碑がありました。
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 以前、淀川堤防を歩いた時、ちょうどお昼前になって、ここから堤防を下りてコンビニを探しにいった覚えがあります。すぐに水路沿いにコンビニは見つかりましたが、今はなくなっているようです。

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■堤防歩き
ここから堤防に上がります。
鳥飼の百円橋

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西には鳥飼大橋

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■鳥飼大橋の下をくぐります
1号バイパスからの接続橋。工事中です。

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■鳥飼大橋を過ぎたあと
ここには庭窪浄水場があります。場内は工事をしていましたので、この設備も工事・調整中なのか。

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河川敷にはわんどが広がります。魚釣をしてます。

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堤防上は小公園になっていて、なかなか気持のよいところです。散歩、ジョギングするひともいます。ここで大休止。ゆっくりします。下には神社があるようです。P1280925

ここで堤防歩きは終りです。

(つづく)
 

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