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2013年12月22日 (日)

■河内 治水のみち6 剣堤(放出-足代)

2013年11月21日
2013年12月 7日

 

 放出から平野にむけて、大同元年(806)10月、河内と摂津両国堤が定められ、その堤に街道を整備していったという、その街道(剣街道)を歩いていきます。


12.左専道

■第2寝屋川の上にいます
 踏切、第2寝屋川と渡っていきます。橋の上から生駒山北嶺を見る。「河内国細見図」河内細見図 安永5(1776) を見ると、北嶺は「草香山」となっていました。生駒とはいわなんだのか?平坦で草が香る山だったのでしょう。この山は、伝ニギハヤヒ山とも言われていました。

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放出駅の南口周辺が整備されタワーマンションが建っています。そこへのアクセス道路だと思いますが、広い道ができていました。放出駅の南口もあるみたいです。

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おおさか東線開通以来、急ピッチで洗練されてきました。さらに、東線が新大阪まで延びると、さらに開発が進むと思われます。京橋を越える接続駅になって放出もあか抜けた街になるか。人気は出るでしょうね。ちょっとアーバンな気分です。

より大きな地図で 劍堤 を表示

■長瀬川を渡る
第2寝屋川と比べると小川みたいなものですが、以前は(大和川付け替えまでは)大和川本流だった川です。橋は新田橋となっています。一気に下町の気分です。

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街道沿いは新しい家に建ち代わってはいますが、古い家もあってなかなか落ち着けそうなところです。

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■諏訪神社
 街道を少しあるくと諏訪神社です。諏訪神社ですから、祭神は建御名方刀美命ですね。

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しかし、八坂刀売命(やさかとめのみこと)はまったく知りません。調べてみると、 本家、諏訪大社の下社の祭神で、建御名方刀美命の妃神であるらしい。しかし、『記紀神話』のどちらにも出てこないので「まったく分からない」神様らしいです。 諏訪固有の神だという説もある由。もっとも、タケミナカタという神様も、古事記には登場するのだが、日本書紀には登場しない。さらに、出雲族ならば当然登 場するはずの出雲国風土記にさえ登場しないので、余計に訳がわからないという神様です。これに関しては、こちらの仮説がおもしろい。
http://www12.ocn.ne.jp/~libra/toho/tohoessay/kousatu01/kousatu01.html

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 さて、境内摂社の「腰掛天満宮」というのがあります。 菅原道真が901年(昌泰4年)筑紫に左遷される身となり、河内道明寺の叔母に別れを告げる ための道中の途中、当神社に参拝し、お社の前の石に腰掛けたという伝説があります。河内の人は菅原道真、好きやね。ま、庶民はほんとのところが分かっていて、菅原道真に同情したか。

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「菅公腰掛石の由来」


 第60代醍醐天皇の御代、当時右大臣であった菅原道真公が昌泰4年(901)筑紫の大宰権師として左遷配流の身となら れ、河内道明寺に在住の祖母君にお別れのため当神社前の堤上の道を通られ、当神社にご参拝になった。 この時、この石に腰掛けられて御休憩になられた。そ して諏訪大明神が身の行く先を助け導く神を聞き、御神号の額一面を奉納されたという。村人は菅公の御身上に同情し、地名を左遷道と改めた(のち再び再び左 専道と改め近年まで用いられた。) なお 腰掛石の横の手水鉢は菅公の子孫である平真貞が先祖の縁を偲んで享保2年酉中夏に奉納した物である。この腰掛に 触れると学業成就の願いが叶うと伝えられている。

■左専道
 このあたりは1970年頃までは「左専道(させんどう)」という地名でした。道真が左遷のとき立ち寄って休んだという故事にちなんで、「左遷道」と呼ばれたが、村人は左遷ではあんんまりだというので、左専道にしたとか、もともとから左遷道とついていて、道真がそれを聞き、自分の境 遇と同じだったことから感慨にふけったとされ、道真の境遇に同情した村人が、地名を「左専道」と改めたとの話も伝わっています。
 住居表示で地名が変わっても、古い地名は、学校とか橋とか自治会館とか、何かに残っているものですが、地図を見る限り、まったくないですね。ほとんど、諏訪○○です。やはり、「させん」は嫌われたか。


13.国境堤のみち

道はまっすぐというより、湾曲しながら南下していきます。途中からすぐ脇に広い道が出現しましたが、あえて、細目のぐにゃぐにゃした道を歩きます。

■阪神高速をくぐったところで、ホワイトハウスを見る

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今は物置になっているのだとか。

■旧街道をゆく

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■八幡神社旧跡
 街道の脇に駐車場があったので、まったくの下調べもなく、ふと思って覗いてみると向うに公園がありました。休憩でもしようと思って駐車場を渡っていくと・・・なにやら石碑がありました。

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「紀功碑」
 西野善七は高井田の人で、性格は素朴、任侠心にとみ、村会議員として村のために尽力した。特に、水利において最も力を発揮した。今、巳酉10月、村人と謀って、その徳と功を永く伝え、水利に功があったことを記してだれもに慕ってもらうよう、この碑を建てた。
漢文がよく分かりませんが、大意、こんなところかと思います。

 向かいの児童公園には「河内国と摂津国境」の案内板がありました。

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・ここには八幡神社があって、明治5年に鴨高田神社に合祀された
・この神社跡の西に、大阪市、東大阪市の市境が通り、そこは、古代から河内と摂津の国境で、古道があった
・この国境の道は周囲より約1m高いところもあり、北は森河内まで延びていた。南は足代以南で屈曲した道になっていた
・街道は摂津と河内の境を通っていた。北は茨田郡まで続いて、剣畷と呼ばれた。街道は剣街道、放出街道と言われている
・深江と西高井田の間のこの堤道は大同元年(806)に定められた国境の道の名残と考えられる

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説明板がちぎれていて肝心なところがなさそうなので、もどかしいです。東大阪市(教育委員会)のサイトにもなさそうというのが、さらにもどかしい。オーストラリア カナイバライオンズクラブまでが共同で寄贈しているのに、東大阪市は知らんてか?
 地図は1776年の「河内国細見図」で、大和川付け替えのあとのものですが、河内平野の旧大和川分流の様子がよく分かるので貴重です。

■狭いみちに古い家
路地ですね。しかし、おもしろい。

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この路地の傍らに古い家も残っています。これは豪邸です。

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■深江稲荷神社
 深江稲荷は、5~6年程前に訪れましたが、その時にはなかった「角谷一圭記念深江郷土資料館」がそばにできているらしいので、行ってみました。

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公式サイト:http://fukaeinarijinja.jp/
http://www.occn.zaq.ne.jp/cutjn200/inarijinja/index.htm

深江神社の案内板も新しいのができています。

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 ここはお稲荷さんですが、由緒には、「当社の創建年代は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南三丁目の地)に居を定め、下照姫命 を奉祀したのを始めとし、その後元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。」とあるので、元来、下照姫命が祭神なのです。下照姫命は、古事記では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神の妹神となっています。由緒正しい葛城鴨系の神社でした。

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■角谷一圭記念深江郷土資料館
 神社の隣が角谷一圭記念深江郷土資料館になっていて、境内から通路が通じています。しかし、記念館は平日は休館でした。

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 角谷一圭さんは全く知らなくて、菅笠作りの名工で人間国宝になられたかと思ったのですが、違いました。釜師で茶の湯釜の名工で人間国宝になった方でした。鋳物師ですね。それなら笠縫氏縁というより、技術的には、摂社に祀られている「天津赤麻良命」ゆかりでしょう。天津赤麻良命は鍛冶の神あるいは、鍛冶集団の長です。

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ところで、笠縫神社に、天勇蘇命、天津麻占曽曽命、天津赤麻良命、笠縫氏祖が一緒に祀られているのはどうしてなのか?笠縫氏は笠も鋳物も両方に関係があった氏族なのでしょうかね?

 ここは、「笠縫邑跡」、「深江菅笠ゆかりの地」として有名で、江戸時代にお伊勢参りに行く人達はこの神社で菅笠を購入し たという。深江の菅笠というのは落語にもでてきますね。 なお、この菅笠作りは現在に至るも有志の方により、作り続けられ、大阪市の無形文化財に指定されています。資料館横には菅の田んぼ?(畑?)もありまし た。

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付近には段蔵も見られました。

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■国境は深江で折れ曲がる
 江戸時代も変わらなかっただろうとの想定で、東成郡が(1925)大正14年に大阪市に編入された時の地図をみると、国境は深江で西に折れ曲がっています。
http://music.geocities.jp/mtaketoshijp/newpage3.htm

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この折れ曲がり点は深江商店街の暗峠奈良街道が東西に伸びているところで、国境はいったん暗峠奈良街道に合流します。その地点がここで、北側の土地よりも1mほど高くなっている。これが堤防跡なのか?しかし、河内再見図では屈曲点は見られない。これはこの地図が詳しくないだけかもしれません。

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※一部の河道を水色に塗ってあります。

■この東西になった国境=暗峠奈良街道を歩いています
南のほうを見ていますが、高低差はほとんどありません。(わずかに下がっているかも知れません。)

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■商店街
主に、オバチャンまたはオバアチャン用か。

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商店街は深江から布施まで続きます。

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布施の駅です。ここを越してもまだ続きます。

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http://www.do-natteruno.com/con_c/c108/c108.html

今回は通り過ぎただけですが、いろんなサイトを見ていると、なかなかおもしろそうな商店街です。いろんな工夫で街起こしをしている。活気ある商店街です。一度ぶらっと歩いてみたい。その名もブランドーリというらしい。


14.都留彌神社

■えべっさんの街・布施
 商店街を南に歩いていって、布施の駅を少し過ぎたところに布施戎神社があります。この戎さまは日本一大きな戎さまだそうです。神社は新しく、、昭和二十九年創建(西宮神社から勧請)、昭和六十三年には大阪の今宮戎神社(事代主命)を勧請したということです。社殿はその建てたものでしょうか。それにしてもキレイです。

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【由緒】

 この地は、その昔、足代村の氏神として延喜式(九二七)の神名帳にみえる都留弥神社(祭神 速秋津日子神・ 速秋津比売神)がまつられていました。
 江戸時代後期の「河内名所図会」享和元年(一八〇一)刊には、都留弥神社、足代村にありとみえています。
 明治十八年(一八八五)の淀川大洪水により、神社は、神殿・宝物・古文書などすべてを流失し、その後、村民の 手により再建されて、足代村の氏神社としてまつられてきました。
  都留弥神社は、明治四十年(一九〇七)から始まった、国の神社合併により、近隣の荒川・長堂・岸田堂などの 神社と合併して、この地から東方約一Kmの現境内地に移転し祭られて居りますが、この時に等境内地は、地元 足代の有志へ払い下げられ、民有共有地として保管されてきました。
 この由緒ある境内地跡に、地元の要望に従い、昭和二十九年(一九五四)西宮神 社から戎大神(ひるこの尊) の御霊代を勧請申し上げ、布施戎神社の祭祀が始まりました。周辺地域が商業地として発展するにともない、 更に昭和六十三年(一九八八)には大阪の今宮戎神社(事代主命)を勧請申し上げ、以来厳粛な祭祀を執行し、 広大な御神徳を仰いでいます。
 参拝者も飛躍的に増加し、毎年一月九日、十日、十一日の十日戎には商売繁盛を長う参拝者が群れをなし、 境内地は身動きができないほどの賑わいとなります。

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 元の都留弥神社を取り上げて、他に合祀したからよい、などということが許されるはずがない。明治政府もとんでもないことをする。この地の神社はほとんどが洪水で社殿も、宝物も重要な古文書もなくしているというのに、それと同等の暴挙をやったのだ。

■お旅所
 本殿の横に、都留弥神社のお旅所ができていました。「都留弥社址」の大きな石標も鳥居横にできていました。

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■都留彌神社
 「この地から東方約1Kmの現境内地に移転した」という新天地の都留彌神社に行ってきました。

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その由緒によると・・・・
 第六十代醍醐天皇の延喜十庚午年は春の中旬より夏至にかけて聊かも降雨なく、河水細り井水涸れて毎日赫灼たる旱天続きにて田植すること叶はず、天皇はこのことを聞し召され深く愍み給ひ河内國に十二社を撰定し、勅使を遺はされて五月二十三日より雨乞の御祈願をなされた御祈り空しからず神応ありて、同月二十五日に至ると大雨降り来て甘水田畑にうるをし喜びの声國々に満ちた、その後続いて順雨あり連年豊作が相続いたと云う。天皇もこの奇蹟に御感ありて親しく御拝あらせられ、此時に都留彌神社の社号を賜はり従五位上を贈られた。」と。
 しかしながら、続いて、明治十八年の淀川大洪水により、神殿・宝物・古文書などすべてを流失し、詳細が分からない、と書いてあります。

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 都留彌神社の祭神は、速秋津日子神、速秋津比売神。男女一対の神様です。古事記では一対で別名水戸神(みなとのかみ)と記しています。水戸神とは港の神の意味で、河口の神でもあります。
 雨が降らなくて難儀して、降り過ぎても難儀する、まことにやっかいな土地です。「水戸神」は港の神ですが、川に穢を流す意味から、祓除の神ともされるので、こうなれば「水戸神」にすがるしかなかったのでしょうか。

 境内には、白龍大神、荒龍大神、塩釜大神、諏訪大神、石上大神が祀られていました。左手の白龍大神、荒龍大神は1つの石ですね。1つでよいのかどうか?

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この不動明王は新しい気がします。

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荒川地蔵尊

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速秋津日子神、速秋津比売神は河内にはふさわしい神様のようです。

(つづく)




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