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2013年12月24日 (火)

■河内 治水のみち7 混迷の横野堤(足代-巽)

2013年11月21日
2013年12月 6日
2013年12月 7日



 放出から平野にむけて、大同元年(806)10月、河内と摂津両国堤が定められ、その堤に街道を整備していったということなのですが、布施(足代)以南は杳として知れず。剣堤の上を通っていたという、放出街道、中高野街道は足代南から直角に西に曲ってから平野へ至っています。古代の(というより、実際調べたのは大正時代の地図ですが)国境に至っては、深江で直角に西に曲った後、カクカクと折れ曲がりながら南下し、岸田堂あたりでは大きく波打ってから直線で西に向かう、という変な動きをし、現在の市境も同じエリアで、もっと複雑な動きをしています。
 こんな状況で、ボクはどこを歩けばいいのやら。それらしい場所も分からないので、いきおい神社巡りになっています。

より大きな地図で 劍堤 を表示


15.消えた村名

■ほんまちフラワーロード終点
ここで布施の商店街は終ります。ここから中高野街道が西に分かれていきます。現在の府道159号です。

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■足代南の地蔵堂
商店街を出てまっすぐ南下すると広い道に当たります。そこには地蔵堂。

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ここまでくると、広い道はもう街道と違う感じです。この先、今まで歩いてきた細いみちは多分、三ノ瀬公園を突っ切って行き、三ノ瀬1-11の辻を 通る縦のラインにつながっていくようです。ここで三ノ瀬までワープします。実は、別の日に荒川の都留彌神社に行った後、清見原神社を目指して歩いているの です。

■三ノ瀬信号
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 西に入ったところ役の行者の道標があるらしい。しかし見つかりません。ま、道標探しをしている訳ではない、と負け惜しみを言っておきましょう。

■赤バス墓所
大阪市交通局自動車部です。大阪で仕事をしている時は安くて便利だったのになあ。

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■岸田堂
府道172号をわたります。岸田堂北町。

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 この辺では旧国境が波打っている。なんで?地図に示した国境のラインは、大正14年大阪市市域拡大の時の地図をみて、エイヤでプロットしたもの です。だいたいこうやという国境ラインと考えてください。厳密性は保証できません。さらに、今の市境も、もっと複雑にカクカクしている、なんで?

 その昔、国境紛争があった名残なのでしょうか?摂津の人が東に飛び出て耕作していた、かつ、別の場所では河内の人間が西に飛び出して耕作してい た。そこを維持するために、さわらないようにして、国境線を引いていったのか?あるいは、河道や水際がうねっていて、そこに国境線線を引いていったのか? ここは、なにやら人為的な匂いがします。

 岸田堂の地は昔、入江の岸にお堂(廃長楽寺)があり、そこを岸田堂と呼ばれていたらしい。
http://www.d3.dion.ne.jp/~mikio566/smp04.html
そういえば、付近に「西岸寺」というお寺もあります。

 府道を渡って、えらい狭い道に入っていきます。

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■消えた腹見
 そろそろ、旧腹見村の木守勝手神社(こもりかって)があるはずです。しかし、神社跡の痕跡もない。付近を一周しましたが分かりません。祭神は、天水分神・国水分神のはずです。あとで調べたら、浄恩寺の中にあるらしい。腹見の神社も、腹見という地名さえも消えています。
代わりに腹帯地蔵尊。

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地名が腹見だから「腹帯」なのか?「はらみ」は、娘が孕んだようなので、確かめるために腹を見たからなのか?

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生野区のサイト「腹見の地車(東小路青年会)」を見ていると
http://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000170.html
 「腹見は、高い地形に位置することから、もとは原見と書いたものを、太閤秀吉が奈良見物の途中に立ち寄った際、村の娘がおなかを見せて踊ったことか ら「腹見」となったとも伝えられています。明治22年に小路村の一部となり、村内の木守勝手神社は清見原神社に合祀されました。」

微高地たっだから「原見」は納得できるにしても、太閤さんの前で娘がお腹を見せて踊ったからとは、ほんまかいな?これが通るなら、上の「孕み」説もまんざらでもないかと。

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 この付近には、小守神社とか子守地蔵とか、子育地蔵とか、出産、育児に関する神社やお地蔵さんが多いです。長瀬川流域の小坂神社も、元は小守勝手明神です。これは、水に難儀した土地だったので、祭神は水分の神を勧請してきて、小守勝手明神と称したといいます。後に、ミクマリがミコモリとなり、コモリ(篭り)となり、「小坂こもり宮」として、安産、子授けの神として崇敬された由。
 ここの木守勝手神社の祭神も「天水分神」なので、コモリとなって子守、さらに思い切り元をたどって、「孕み」になったというのは飛びすぎか?まあ、水源や水路をあんじょうしてもらうのも、子供ができるのもめでたいことなので、ヨシとしたいと思います。

 木守勝手神社というのをさらに調べていたら、謡や能でも出てきていました。http://www.harusan1925.net/1105.html
 謡曲「嵐山」では・・・・・・吉野から千本の桜を京の西、嵐山に移し、花の咲き具合を視察するため勅使が派遣されたところ、老爺老婆が現れ、木陰を清め花に向い祈念します。嵐山の桜は、吉野山の木守・勝手の二神が守護する神木だから枯れずに咲き誇る。木守明神を祀るのが、吉野水分神社、勝手明神を祀るのが勝手神社である。自分たちはその神であると。やがて、再登場した木守・勝手二神は神遊びを見せ、続いて蔵王権現も出現し、衆生の苦難を救い国土を守る、と誓うと共に、榮ゆく春を寿ぎます。
 まことにめでたい。ミクマリのエッセンスを研ぎ澄ませて浄化させてゆくとこうなるのでしょう。ここに住んでいる人々の気持も、こういうことだったと思われます。
 ああ、嵐山。今年は、木守・勝手明神の力を以ってしてもカバーできず、大きな災害が起こってしまいました。しかし、被災者の努力やボランティアの力もあり、素早く復活した。被災者の方々はそこに蔵王権現を垣間見たということなのでしょう。

■北八尾街道
 浄恩寺の近くに、ナナメ北西に走る道があります。これは北八尾街道です。複雑に入り組んだ市境岸田堂はナナメの道が分からなくなっていますが、寿町(蛇草)ではナナメの道が出現して、久宝寺へと続いています。そのナナメ道を小路に向かいます。

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■六叉路
ナナメ道あるところに六叉路あり。ここにも何ヶ所かあります。下の2枚は同じ六叉路を、通り過ぎる前後で撮っています。

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下の写真は、もう内環状線に近いところですが、ここも六叉路。

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■清見原神社
小路小学校の横に、清見原神社はあります。

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境外からみる本殿。立派です。

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鳥居がなくどうも様子が違う?と、思ったら、こちらは裏口でした。反対側(西側)に立派な鳥居がありました。

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鳥居のそばにあった、大友町の地誌碑

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片江、腹見、中川、大瀬という字があり、それを包括する大友町があったが、住居表示変更により、大友、片江、腹見、中川の地名がなくなったとのこと。しかし、地図をみると、中川は西のほうに残っていて、大瀬というのがなくなっています。

さて、拝殿と由緒

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 天武天皇を主祭神とし、明治の神社合祀により素盞嗚尊・大山咋命・天水分神・國水分神を合祀しています。
 旧片江村の素盞嗚尊神社(祭神 素盞嗚尊)、
 旧中川村の松尾神社(祭神 大山咋命)、
 旧腹見村の木守勝手神社(祭神 天水分神・国水分神)、
 旧大瀬村の八劔神社(祭神 神素盞嗚尊)

を、村の中心部で学校もある旧大友村の清見原宮に合祀し、村名をとって小路神社としまた。
 もと宮地は高地でありましたが、附近一帯は沼沢地でありましたため、度々水害に見舞われ、そのため社記その他の古文書が流出したといわれています。口伝によれば、天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮から難波に行幸した際に現在の当社鎮座地で休憩したという。現在の社名はこの伝承によるものであり、このとき天武天皇が吉野の方をかえり見たとのことから、附近の地名「吉野見」が生まれました。天武天皇 の歿後、一帯を本拠としていた大伴氏が天武天皇を祀る神社を創建し、天武天皇宮と称したと伝えられます。以降、旧大友村の氏神として崇敬されてきました。
清見原神社監修サイト:http://www.kimuko.net/kiyomihara_j/goyuisyo.htm
公式サイトは凝りすぎでよくわからない!http://www.kiyomihara-jinja.com/yuisho/

おおとも町は大正のころからの呼称らしいですが、大伴氏から取ったのでしょう。それを大友町としたのは、天武天皇の神社だったから、壬申の乱で大友皇子に勝ったことで、大友としたのか?

遥拝所

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 石柱二柱は「注連柱(しめばしら)」というもので、鳥居などの神域を結界するための標です。ここには「寳祚維永」「昭徳日煇」と 刻まれており、昭和天皇即位の御大典を記念して、昭和3年7月に腹見町の氏子中が創建したという。(清見原神社監修サイトより)
近寄ってみますと・・・・

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丸い穴の開いた石はなんでしょう。ヤップ島にあるという石貨に似ていますが。石貨: http://getnews.jp/archives/150100()

さらに寄ってみます。

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旧腹見村字大瀬(大瀬村)の八劔(八釼)神社の)石標です。この石標は、生野区小路東3丁目9-8の宮跡にありましたが、建売住宅地となったため、こちらに移設したとのことです。宮跡の土地を売り買いする神経が分からないが・・・・
清見原神社監修ホームページ:http://www.kimuko.net/kiyomihara_j/

天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)は、やはり水の神のハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子神です。ミクマリ神は流水の分配を司る神(クマリ=配り)いわば水を司る水神で、水源地や分水点に祀られることが多く、祈雨の神様でもあります。また、田の神や、水源地に祀られるものは山の神とも結びついた由。河内にとっては重要な神様です。

祖霊社と拝殿

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春高大明神

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今は社務所ですが、元の拝殿でしょうか。

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「しょうじスタイルってなに」って! :http://www.kimuko.net/syoji/index.html
こちらの古い写真は貴重です。

ネコが不審者を睨んでます。

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近くにあった子育地蔵尊

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16.横野堤はどこに

 ここから、横野神社址を探しながら南下していきます。中高野街道も、平野川放水路も越えて西に行く必要があります。

■松尾神社
小路と中川東の境界も道端に、旧中川村の松尾神社址があって、大きな石碑が建っていました。ただ建っているだけで説明らしきものはありませんでした。このあたりで、中高野街道は西に振れていきます。

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■巽北

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■平野川分水路
平野川分水路に向かって歩いています。どうも見覚えがあるなと思ったら、俊徳街道歩きで通ったところでした。左手の建物は北巽小学校。水路沿いに南に折れます。

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■平野川分水路改修碑
 勝山通りが分水路をわたる巽橋の南西角には「平野川分水路改修之碑」があります。平野川は堤防が低く川筋も蛇行していたために度々洪水を繰り返していました。大阪市が昭和4年(1929年)に平野川分水路(城東運河)の開削に着工し、戦中の中断を経て昭和38年にようやく完成しました(内、改修工事は昭和27年から12年間)。
古代の、摂津/河内国境もこの近くを東西に走っていたと思われます。

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その東詰は、大阪市東部環境事業センターです。さらに川端を南下します。

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■横野神社
 最初はなかなか見つかりませんでした。第1回めはちょうど道路工事をしていて、それでも少し探しましたが、見つからず。後で調べてみると、ちょうど避けて通ったエリアの真中にあった!

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横野神社蹟
 この社地はもと河内国渋川郡大地村の神社で、古来より印地之宮または西之宮と呼ばれ、平安時代の延喜式の古社であった。御祭神は十一代垂仁天皇の皇子印色入日子の命で、社地は元々三百坪の境内であった。
その起原は、日本書紀仁徳天皇十三年の條に「冬十月横野堤ヲ築ク」という記述があり、昔この付近を流れていた橘川(古平野川)の氾濫を防ぐため巨大な堤防を築かれたと云われ、その堤の安全と河水の穏流を願って造営されたのが当社の始まりと云われている。
又、当地を詠んだ古歌、万葉集に、「紫の根延ふ横野の春野には君をかけつつ鴬鳴くも」
続いて続古今集に、「霜桔の横野の堤風さえて入り汐さえて入り汐遠く千鳥鳴くなり」
と云う歌があり、当時この辺りが海に近かったことが偲ばれるのである。 

神社の変遷
 江戸時代前期延宝年間に至り、社地は荒果て社殿も吹倒されたため同村、大地村八幡宮(現・巽神社(たつみじんじゃ))の境内に御祭神を移したことがあった。
その後、享保年間になって、有名な五畿内志を著した当時の国学者の並河誠所がこの社地をお調べになり、由緒ある旧社である旨を庄屋松久善左衛門に申し聞かせ、これにより享保十六年公儀のお許しを得て村民達により立派に再興された。以来、宮座を組んで連綿と神燈を守ってきたが、明治四十年の神社合祀令により巽神社(たつみじんじゃ)に合祀され廃社となった。
 正面の碑は大正八年宮座、横野講の人々によって建てられたものである。尚、前方左側の碑は平成四年に建立された万葉碑である。万葉学の大家、犬養孝先生の揮毫になるもので、同年三月三十一日同氏により除幕された。

平成五年九月吉日
横野万葉会 謹記

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戸原さんによると、
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/shikinai-yokono.html
 祭神は、印色入日子命(イニシキイリヒコ命、書紀では五十瓊敷入彦命)、垂仁天皇と皇后・日葉酢媛との皇子で、12代・景行天皇の兄君。神話の昔です。その事蹟はスゴイです。日本書紀・垂仁紀35年条には、「秋9月、イニシキイリヒコを河内国に遣わして、高石池、茅渟池を造らせた。(古事記では血沼池・狭山池・高津池)。」35年条の池溝築造のすべてがイニシキイリヒコの仕事ではないが、歴史に残る重要な池を築造したことから、水を掌る守護神的存在として崇拝され、仁徳朝に築かれたという「横野堤」の守護神として祀られたのではないか、と書かれています。
 今は住宅に囲まれていますが、この地の神社にふさわしい祭神です。神社は、太古はこの辺りの「橘川(古平野川)」の右岸にあたり、河水の氾濫と玉造江の潮流を防ぐために築かれたたと考えられています。

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■さて、横野堤はどこに
 日本書紀の記述は、仁徳天皇十三年の條に「冬十月横野堤ヲ築ク」とあるだけで、どこにあるのかは分かりません。しかし、横野神社の記載と、1)「和気清麻呂の河内川導水開削経路の復原とその検証」;川内眷三、四天王寺大学紀要 第52 号(2011 年9 月)により、単純に、横野神社周辺で、古平野川に沿ったラインだと思っていました。しかし、諸説あるものです。

2)ブログ版『大和川水紀行』によると、
http://fuji-u.blog.so-net.ne.jp/2013-09-09
 田島神社東方の田島小学校の北側から北へ延びる道は「竜崋堤」跡だ。金子晋『美しい水都が見えた』では、これが「横野堤」としている。鶴橋耕地整理事業でその高まりは失われているものの、田島工営所の西側を通る曲がりくねった道筋がその名残をうかがわせる。この先、勝山通りの新大阪病院と難波寺の西側の道が「竜崋堤」跡で、今里筋中川2交差点手前までくねった道が続いている。
3)「古代伎人郷は何処」によると、
http://music.geocities.jp/mtaketoshijp/newpage3.htm
 新修大阪市史にも横野堤に関する記事がある。『横野堤については、式内社横野神社が旧中河内郡大地村字印地(生野区巽西4)を故地とするのが知られ、その位置は図(上中図)のように摂津河内国境に近接しているが、そのすぐ北側には「高堤」「横堤」の小字地名があり大正期まではここから北へ向かって堤防が走っていたのである。したがってこの堤防は横野神社故地附近を通ってさらに南へ延びていた可能性があり、堤防がそのまま国境になっていたものと思われるので、この南北に走る堤防の横野堤をほぼ継承すると考えてよいのではないだろうか。こうした推測に立てば、平野川の前身をなす小椅江の治水工事が難波堀江の開削と関連して進められ、横野堤の堤防が構築されたことになるが、それは上町台地に接近して北流する河道からみると右岸(東岸)側の氾濫洪水に対処するためであったと考えられる。』
4)史跡 山小路案内板によると、
ボクはこれはまだ見ていませんが、見た人のサイトをみると、
http://barakan1.exblog.jp/d2010-03-26/ (長生きも芸のうち日記)
http://www.xhotzone.net/vh/27a/vh09103101.php

史跡 山小路

生野区巽南一丁目一番の界隈は、河内国渋川郡四條村(四条村:元桑原庄)字山小路である。山小路は、山号も小丘山という定願寺の、開基正長に係る記録巻物にある通り、自然堤防である平野川右岸堤より東へ分岐する約一町ほどの堤と、その堤に付随する堤の内側(南側)の一帯を言う。
この山小路の堤が、日本書紀に仁徳天皇の十三年(326)に築かれたとある「横野堤」である。田島村の村名が島というがごとく、山小路より北は玉造江という難波の入り口であった。横野堤である山小路の堤は、玉造江からの入り潮に、両手を広げて立ちはだかり、山小路にあった歴史に名高い古社「横野神社(よこのじんじゃ)」を守ったのである。まさに神社と堤が一体となった古い形態をなしている。
明治に至って、町村制施行に伴う巽神社への合祀には、山小路の村社天神社である横野神社から御霊を巽神社に写したが、今日、神社跡には「横野神社跡」の碑が立つのみである。

 4)は、山小路にあった古社は四條村 天神社(横野神社でない)と思うし、マップの位置関係がよくわからないので、行って確認しないといけません。それらしい位置に堤をプロットしておきましたが、2)3)は長さはともかく位置は似ています。1)もまあ近いか。

 次回には、旧平野川筋を歩いてみたいと思います。それまで、万葉の歌でも味わっておきましょう。  

むらさきの根延(ば)ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも
                       
(不知詠人)

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 万葉の歌とはほど遠い、横野でした。
 このあと、巽神社まで行きましたが、再訪決定のようなので、その時までレポートはお預けとします。

(いったん終り)

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